こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
外戚に振り回される魏の宦官
このような制度から、魏では皇帝と親密になる宦官が登場せず、その地位は皇帝の使用人という立場以上にはなりませんでした。
例えば、曹芳の時代の宦官である張当は、曹爽により都監に任じられ曹芳の監視を命じられました。その後も張当は、曹爽に取り入ろうと自らが選んだ後宮の女官を曹爽に献上し曹爽に取り入ろうとしています。
しかし、張当は司馬氏が高平陵の変を起こして曹爽一派を処刑した時に尋問を受け、クーデターに加担したとして処刑されました。
また、西暦254年に李豊が司馬懿への謀反を企んだ時に、同じく曹爽派だった蘇鑠等の宦官を味方に引き込みますが、反乱はあっさりとバレ、蘇鑠等も処刑されたそうです。
後漢の末に、中常侍が何進の殺害を謀ったポジティブさを見れば、魏の宦官は同じ宦官とは思えないほどに他力本願な感じがします。魏の宦官は、曹爽一派と司馬一族の思惑に振り回され、自らが計画の首謀者にはなれない、みじめな存在で終わったのです。
関連記事:我ら十常侍!でも、なぜか12人います!その理由とは?
関連記事:十常侍に学ぶ正しい謝罪!真土下座の花道【ビジネス三国志】
魏の宦官は司馬氏の専横に敗れた
しかし、長い目で見れば曹芳は幼帝でしたし、曹爽のパシリを離れて魏の宦官が孤立無援の曹芳の心を捉えて曹爽一派を誅殺する形で宦官の害が起きた可能性もあります。
結局、そうならなかったのは、魏の宦官に大した人物がいない事と、司馬氏により魏が乗っ取られてしまったからでしょう。
皇帝に寄生しないと権力を奮えない宦官は、その皇帝を必要としない簒奪者の前には全く無力でした。司馬氏が魏を食い荒らしていく中で、宦官達は何も出来ず倒れて行く魏の行く末を黙って見続けるしかなかったのです。
関連記事:【衝撃】司馬氏の悲願は周王朝の復活?魏が大嫌いな司馬兄弟
関連記事:【極悪】司馬懿はいかにして屯田制を食い物にしたのか?
宦官の害が少ない呉
同じく宦官の害が少ない呉はどうでしょうか?
大帝孫権の半世紀に渡る治世の後、権力は幼い孫亮に継承されますが、諸葛恪と滕胤が補佐についた事で、宦官が付け入る余地はなくなりました。
しかし、元々呉は皇帝の力が弱く、諸葛恪の死後には孫峻と孫孫 の王族の外戚が続いて独裁を開始し、孫亮が孫綝を排除しようとクーデターを画策するも計画が漏れて廃位されてしまいます。
その後、孫綝は傀儡として孫休を擁立しますが、すでに成人した人物であり、やがてを孫綝を誅殺し権力を奪い返しました。孫休が後継者として定めた孫晧も即位時には19歳であり、すでに幼帝ではありません。
もっとも、呉は宦官に振り回されない代わりに豹変した孫晧の暴政に振り回されるので、威張れたものではないのですが…
ちなみに三国志演義では宦官とされる岑昏は、正史では宦官ではなく何定、万彧、奚熙、陳声、張俶と並ぶ奸臣とされています。
関連記事:実は三国志時代を生んだ存在?宦官の正体
関連記事:司馬遷とはどんな人?実は前漢時代のホリエモンだった!
三国志ライターkawausoの独り言
蜀を除けば、魏も呉も後漢をボロボロにした宦官の害をほとんど受けなかったと言えます。
宦官が宮廷で影響力を持つには、皇帝が幼く孤立していて、外戚が専横を極め、皇帝が頼る相手が宦官しかいないという幾つかの要素が必要で、魏や呉ではその状態は出現しなかったという事が出来るでしょう。
参考文献:正史三国志
関連記事:宦官はどんな生活をしていたの?