どうして魏呉では宦官が悪事を働けなかったのか?

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魏呉の宦官(1P目)




外戚に振り回される魏の宦官

曹爽

 

このような制度から、魏では皇帝と親密になる宦官が登場せず、その地位は皇帝の使用人という立場以上にはなりませんでした。

 

曹芳

 

例えば、曹芳(そうほう)の時代の宦官である張当(ちょうとう)は、曹爽により都監に任じられ曹芳の監視を命じられました。その後も張当は、曹爽に取り入ろうと自らが選んだ後宮の女官を曹爽に献上し曹爽に取り入ろうとしています。

 

三国志のモブ 反乱

 

しかし、張当は司馬氏が高平陵(こうへいりょう)の変を起こして曹爽一派を処刑した時に尋問を受け、クーデターに加担したとして処刑されました。

 

李豊と張緝

 

また、西暦254年に李豊(りほう)が司馬懿への謀反を企んだ時に、同じく曹爽派だった蘇鑠(そしゃく)等の宦官を味方に引き込みますが、反乱はあっさりとバレ、蘇鑠等も処刑されたそうです。

 

何進

 

後漢の末に、中常侍が何進の殺害を謀ったポジティブさを見れば、魏の宦官は同じ宦官とは思えないほどに他力本願な感じがします。魏の宦官は、曹爽一派と司馬一族の思惑に振り回され、自らが計画の首謀者にはなれない、みじめな存在で終わったのです。

 

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魏の宦官は司馬氏の専横に敗れた

異議ありと叫ぶ司馬懿

 

しかし、長い目で見れば曹芳は幼帝でしたし、曹爽のパシリを離れて魏の宦官が孤立無援の曹芳の心を捉えて曹爽一派を誅殺(ちゅうさつ)する形で宦官の害が起きた可能性もあります。

 

司馬師と司馬懿

 

結局、そうならなかったのは、魏の宦官に大した人物がいない事と、司馬氏により魏が乗っ取られてしまったからでしょう。

皇帝に寄生しないと権力を奮えない宦官は、その皇帝を必要としない簒奪者(さんだつしゃ)の前には全く無力でした。司馬氏が魏を食い荒らしていく中で、宦官達は何も出来ず倒れて行く魏の行く末を黙って見続けるしかなかったのです。

 

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宦官の害が少ない呉

孫亮を後継者として指名する孫権

 

同じく宦官の害が少ない呉はどうでしょうか?

 

孫亮を支える諸葛恪と孫峻

 

大帝孫権の半世紀に渡る治世の後、権力は幼い孫亮(そんりょう)に継承されますが、諸葛恪と滕胤(とういん)が補佐についた事で、宦官が付け入る余地はなくなりました。

 

諸葛恪と孫峻

 

しかし、元々呉は皇帝の力が弱く、諸葛恪の死後には孫峻(そんしゅん)孫孫 (そんちんの王族の外戚が続いて独裁を開始し、孫亮が孫綝を排除しようとクーデターを画策するも計画が漏れて廃位されてしまいます。

 

孫休

 

その後、孫綝は傀儡として孫休(そんきゅう)を擁立しますが、すでに成人した人物であり、やがてを孫綝を誅殺し権力を奪い返しました。孫休が後継者として定めた孫晧(そんこう)も即位時には19歳であり、すでに幼帝ではありません。

 

孫晧(孫皓)

 

もっとも、呉は宦官に振り回されない代わりに豹変した孫晧の暴政に振り回されるので、威張れたものではないのですが…

 

三国志演義_書類

 

ちなみに三国志演義(さんごくしえんぎ)では宦官とされる岑昏(しんこん)は、正史では宦官ではなく何定(かてい)万彧(ばんいく)奚熙(けいき)陳声(ちんせい)張俶(ちょうしゅく)と並ぶ奸臣(かんしん)とされています。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

蜀を除けば、魏も呉も後漢をボロボロにした宦官の害をほとんど受けなかったと言えます。

 

怪しい巫女のい占いを信じる黄皓

 

宦官が宮廷で影響力を持つには、皇帝が幼く孤立していて、外戚が専横を極め、皇帝が頼る相手が宦官しかいないという幾つかの要素が必要で、魏や呉ではその状態は出現しなかったという事が出来るでしょう。

 

参考文献:正史三国志

 

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呉の武将

 




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コメント

  • コメント (1)

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    • 月友
    • 2021年 4月 09日

    宦官の天敵は名士。思うに魏呉では地元名士が大臣や官僚になってるから宦官を抑制出来てたんじゃないかな。
    一方、蜀では荊州閥が幅を利かせてきたが荊州は既に失陥してるから、日を追うごとに荊州閥の力もジリ貧になったんだと思う。
    蜀の四相は荊州閥だし、姜維なんて涼州の人。地元益州から四相クラスの宰相やら姜維クラスの有力な将軍を出していたら蜀の宮廷環境もだいぶ変わってたんじゃないかなと思いました。
    まぁ益州民からしたら劉備・劉禅は征服側だから統治に協力したく無かったのかもしれませんが。(蜀での小規模の叛乱を見れば少々納得は出来る)




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