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この記事の目次
曹操、素早い対応で袁紹軍を殲滅する
曹操の元に走った許攸は「鳥巣」という場所に袁紹軍の兵糧庫があることを伝えます。曹操はそれを聞き、直ちに決断し兵を鳥巣に向かわせます。
兵士たちは袁紹の勢力範囲、河北地域の軍装などを偽装し、袁紹軍に潜入し、鳥巣を襲撃、袁紹軍の兵糧を焼くことに成功します。これで袁紹軍は総崩れし、袁紹は敗北、そして逃走することになるのです。
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曹操が官渡の戦いで勝利したのは「決断力」「人物」
曹操は決断が早く、ここぞという時には電光石火で軍を動かしました。しかし袁紹は優柔不断で、何度かのチャンスも逃しています。この決断力の差が、曹操勝利の要因の一つでしょう。
もう一つは人物の扱いの差です。曹操は周囲の意見をよく聞き入れ、たとえ裏切り者であっても使える意見は採用する度量がありました。
袁紹は田豊の例で分かるように、人の意見を聞き入れない事があり、部下の扱い方にも難がありました。これも「官渡の戦い」の結果を左右したと思います。
袁紹に意見した田豊は「馬鹿にされた」と思った袁紹に処刑されていて、曹操との度量の差は歴然です。
「官渡の戦い」のあと袁紹は没落し、2年後に死去、その跡目争いが激しく、袁家も数年で滅びました。
一方曹操は中国北部を勢力圏に入れ、天下統一に近づいたのです。
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三国志ライターみうらの独り言
袁紹の元には優秀な武将が集まりましたが、袁紹はそれらを扱いきれなかったようです。組織のトップは自分ばかりを過信せず、周囲の助言に耳を傾けることが最も重要だ、という事がわかるのが「官渡の戦い」ですね。
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