「官渡の戦い」は「三国志」においての序盤の山場で、曹操と袁紹が激突した戦いです。結果は曹操軍の勝利に終わり、曹操は北中国を支配下におさめ、天下取りレースのトップに立ったのです。
当時曹操軍と袁紹軍の勢力はほぼ拮抗していましたが、結果的に曹操が勝利したのはなぜだったのでしょうか?
今回の記事で考えてみましょう。
この記事の目次
官渡の戦いに至る経緯と田豊の案
当時中国全土12州のうち、袁紹、曹操ともに4州ずつを支配していました。接近した両者の激突は迫っていたのです。
そんな199年、劉備が曹操に反乱を起こし、袁紹に同盟を求めます。
曹操は劉備討伐に向かう事になったのですが、そこに目を付けたのが袁紹軍の参謀「田豊」でした。
田豊は劉備討伐に向かった曹操の根拠地「許都」が手薄なのを察知し、袁紹にそこを奇襲するように提案しました。しかし袁紹は子供の病気を理由にその作戦を拒否。田豊は持っていた杖を地面にたたきつけ悔しがったといいます。
曹操は電光石火で劉備を撃破し、関羽を捕虜にすることに成功します。ここで田豊の案を受け入れていれば、今後の展開も変わったかもしれません。曹操が勝った理由の一つにこの袁紹の決断ミスがあるでしょう。
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またしても田豊の案を却下する袁紹、そして官渡へ
曹操は劉備を破ると防衛体制を整え、「官渡」に進出します。
袁紹軍では持久戦を主張する「沮授」「田豊」と、短期決戦を主張する「郭図」「審配」で意見が分かれていました。
袁紹は短期決戦を選択します。
田豊は「曹操を侮るのは危険です。奇襲などで相手を疲弊させ、自軍は英気を養うべきです。きっと2年もたたないうちに勝利できるでしょう。この一戦にすべてをかけるのは危険で、きっと後悔するでしょう。」と執拗に主張します。
すると袁紹はなんと「田豊の発言は士気を下げる」と田豊を牢にぶち込んでしまいます。
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白馬での「関羽」の活躍と「荀攸」の策略
曹操と袁紹の戦いは「白馬」と言われる地域で始まりました。
袁紹軍の大軍に比べると、曹操軍は少ない兵力でしたが、曹操の参謀「荀攸」は袁紹軍を分散させる作戦を提案し、採用されます。
それは少数の部隊を袁紹軍の背後で展開させ、兵力の一部を割かせる「陽動作戦」でした。袁紹はまんまと引っかかり、戦力を分散させます。
そこで活躍したのは関羽でした。彼は「顔良」「文醜」という袁紹軍の武将を討ち取り、序盤の戦いを制します。ここで案を拒否する袁紹と、受け入れる曹操の差が出ました。
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袁紹、裏切られる
その後両軍は官渡に進軍しますが、そこで3か月あまりのこう着状態に陥ります。
曹操軍は兵糧が不足し、曹操は一時撤退も検討しますが、「荀彧」らに止められ何とか踏みとどまります。
袁紹軍にいた「許攸」は曹操軍の状態を察知し、袁紹に許都襲撃を提案します。
しかし袁紹はこれを受け入れず、袁紹に嫌気がさした許攸は曹操軍に投降します。
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