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魏晋世語では大シカと鼓角で破れる張衛
武帝紀では曹操が智謀で一方的に勝っているように見えますが、正史三国志張魯伝が引く魏晋世語では、また少し違う陽平関の攻防が描かれています。
張魯は五官の掾を派遣して降伏したが、弟の張衛が山を横切って陽平城を築いて防御したので曹操軍は進めなかった。張魯は巴中に遁走したが曹操は兵糧が尽きたので帰還しようとした。
ここで幕僚の郭諶が
「張魯はすでに降伏し、降伏の使者も手元に留めています。張衛は同意していませんが、張魯は巴中に逃げてバラバラで個別撃破が可能です。軍を深く進軍させれば必ず勝利し退却したなら追撃されて大敗するでしょう」このように述べて退却に反対した。
曹操は、郭諶を疑い実行しなかったが、夜間に野生の大シカ数千頭が張衛の軍営に突撃して軍営を破壊、張衛は大いに驚いた。
その夜、高祚らは進路を間違い張衛の手勢とバッタリ遭遇した。
高祚は鼓と角笛を鳴らし軍兵を集めようとしたが、張衛は突撃の合図と勘違いし、すでに自軍が曹操軍に包囲されていると思い込み観念して投降した。
魏臣世語では、曹操は実力で勝利したのではありません。そして張衛も大シカの襲撃で弱気になり、さらにたまたま道に迷った高祚の軍勢と遭遇し、鼓と角笛の音を包囲殲滅の合図と信じ込んで降伏するなど、マヌケな状態で降伏を余儀なくされています。
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三国志演義では許褚と一騎打ちして戦死
正史三国志では活躍できない張衛ですが、三国志演義では最後まで兄の降伏に逆らい、曹操軍の許褚と一騎打ちして破れ、戦死するという最後になっています。これはこれで派手な扱いで読者の記憶に残る演出かも知れません。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は、五斗米道の教祖、張魯の弟、張衛について書いてみました。彼が陽平関に数キロの砦を築いて曹操軍を一度は退却させたのは事実のようです。
しかし、長期に渡り戦を経験していないブランクもあり、大シカ数千頭が陣営を破壊したり、太鼓や角笛を包囲殲滅の合図と思うなど最後は不甲斐ない調子でした。
参考文献:正史三国志
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