関羽と糜芳、両者の関係は如何なものだったのか?

2021年6月5日




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はじ三倶楽部 自分が気づかなかった新たな視点に気付かされた人

 

関羽(かんう)糜芳(びほう)、という二つの名前を並べると、三国志ファンは何やらざわざわしたものを感じるのではないでしょうか。

 

関帝廟で関羽と一緒に祀られる周倉

 

関羽と言えば三国志の名将中の名将であり、死後は神にまで至った人物。対してその関羽を裏切り、死に繋がる原因を作った存在とも言える糜芳。今回はそんな彼らの関係を見ていきたいと思います。




関羽と糜方の出会いは

正史三国志_書類

 

関羽と糜芳の出会いそのものがどういったものかは詳しく記録されていません。

 

劉備を支援する麋竺

 

ただ糜芳は兄の麋竺(びじく)と共に、陶謙(とうけん)の死後に劉備(りゅうび)に仕えることになりました。そして20年以上もの劉備の放浪生活について行くこととなります。つまり、劉備の義兄弟である関羽とも長い付き合いと言えるでしょう。

 

麋竺

 

また劉備が曹操(そうそう)の元に身を寄せた際に、糜芳も曹操の元にいたのですが、この時に曹操から「見どころのある人物だ。ホウ城相に任命する。今後も我が元に留まって欲しい」と勧誘されています。

 

麋竺と劉備

 

しかし糜芳はそれでも劉備からは離反することなく、その後も兄と共に劉備に付き従います。




糜芳、南群太守に

髀肉の嘆の劉備

 

その後、劉備はももに贅肉が付いてしまったりするなど色々な出来事を経て、荊州(けいしゅう)、そして蜀を手に入れました。そして関羽は荊州都督(ととく)に任じられますが、同時に糜芳も呉との最前線ともいえる南群の太守に任命されます。

 

糜芳

 

前述したように荊州、南群は対呉に置ける、そして蜀においても大事な拠点。もちろん兄弟の麋竺、糜夫人の関係もあるでしょうが、糜芳もまた劉備に信頼されていたからこその任命だと思われます。

 

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関羽との軋轢

樊城の戦い

 

ここまでで糜芳と関羽の関係は分かりませんが、ある事件が起こります。関羽は樊城(はんじょう)攻めを開始しますが、この際に糜芳、士仁(しじん)に援軍を求めました。

 

兵糧を運ぶ兵士

 

しかしここは呉との最前線、そうそう簡単に兵力は送れなかったのか、二人は援軍ではなく補給物資を送ることにしました。が、ここで糜芳は出火事件を起こし、物資を燃やしてしまいます。

 

激怒する関羽

 

これは関羽の逆鱗に触れ「凱旋した際にはこの事を我が君に報告し、容赦なく処罰をする!」と言われてしまいます。

 

呉に下る糜芳、孫権

 

この言葉は糜芳を追い詰め、そこに抜け目なく孫権(そんけん)から「良かったらうちおいでよ!(超意訳)」されたこともあり、糜芳は最終的に呉に行ってしまうことになります。

 

樊城の戦い特集

 

裏切りか?内通か?

蜀志(蜀書)_書類

 

因みに糜芳の裏切りに関してですが、関羽伝では「孫権の兵を迎え入れた」とありますが、呂蒙伝(りょもうでん)では「城を守って籠城していたけれど士仁が先に降伏したことで、呂蒙と士仁がいっしょにいる姿を見ると降伏した」となっており、内通していたのか、それとも士仁が降伏したことで諦めて降伏したのかは分かってはいません。

 

呉志(呉書)_書類

 

ただ蜀の記録では糜芳は内通していたという印象を受け、呉の記録では籠城するつもりだったのが同僚の降伏を見て諦めた、という印象を感じるのが面白い所です。

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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