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後世の記録
ただし、これら全てが全てということはないと筆者は思います。何故ならば、多くの場合で歴史の記録はやや後付けをされることが多いからですね。
「鍾会は野心家と言われていた」
「危険視されていた」
「ろくなことしないとかも言われた」
「何かやらかすぞと言われた」
そしてこれらは実際にその通りになっています。これらは実際にそうなったからこそ記録されているという面が強いでしょう。
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英才教育
また鍾会が実際に能力があったかどうかという面に関しては、その経歴を見ると分かります。
鍾会は母親に4歳で「孝経」を、その後も「論語」「詩経」「尚書」「春秋左氏伝」などなど、様々な書物を読ませられ、暗喩させられました。
残された論文なども見ると、鍾会の才能はその教育によってしっかりと培われたものだと思います。なので決して鍾会自体の能力が欠けていたということはないでしょう。
ただ、逸話の端々を見ていると「人間性の面では欠けていたんだろうな……」とも思いますね。例え記録に偏りがあったとしても、それらの記録があるという人物に変わりもないですから。
面白いひと
さてそんな鍾会の何が面白いか。時代は三国志末期、既に戦いは人と人ではなく、国と国との戦いになって来て久しい中。既に群雄割拠の時代はほとんど終わった中で、鍾会は己の才覚と力を信じて立ち上がった人物なのです。
……その結果がどうかは皆さんご存知のことですが。
それはもしかしたら姜維に上手いように乗せられただけかもしれませんが、個人的に鍾会は「三国志末期で三国志をもう一度やろうとした人」だと思います。
そう思うと鍾会、とっても面白い人物に見えては来ませんか?
三国志ライター センのひとりごと
三国志末期と言えば、文鴦がいますね。彼もまた三国志末期に生まれたばかりに、その才覚を活かせないまま終わった、時代が違っていたら……と思う人物です。
ただ鍾会は悲哀を感じさせる文鴦と違い、何だか不思議な面白さがあると思うのは筆者だけでしょうか?悲運と言えば悲運だけど、どこかそれだけじゃない鍾会……ある意味、三国志の時代の最期を飾った人物だと思いますね。
どぼん。
参考文献:蜀書姜維伝 魏書鍾会伝
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