龐統が生きていたら関羽の寿命は縮んでいた?

2021年6月8日


 

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龐統と孔明を手に入れた劉備

 

劉備(りゅうび)諸葛亮(しょかつりょう)を配下に加えてから大きく躍進を始めますが、その際に有能な部下たちを次々と失っています。

 

清々しいほど性格が悪い法正

 

その中でも特に才能を惜しまれるのが龐統(ほうとう)法正(ほうせい)

 

法正と劉備

 

法正がいれば夷陵(いりょう)の戦いでの大敗はなかったと言われていますし、龐統が生きていれば荊州(けいしゅう)を失わなかった、あるいは諸葛亮が早逝することはなかったという話もあります。

 

龐統

 

その反面、龐統は孫権(そんけん)軍のスパイだという説もあり、劉備に益州(えきしゅう)を獲るよう献策したのも裏があるのだとか。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

一般的には龐統が生きていれば関羽(かんう)と荊州は失わなかったと言われていますが、スパイ説を前提に考えると龐統が生きていたら関羽の死は早まっていたという見方もできます。

 

関羽の青銅像

 

というわけで、今回は妄想100%で龐統と関羽の死の関係性を紹介していきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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龐統という人物

龐統

 

龐統は南郡太守だった周瑜(しゅうゆ)功曹(こうそう)(人事を担当する役人)として仕えていた人物で、周瑜が逝去するとその遺体を呉へ送り届けていることからも孫権たちとの関わりが深いことが窺えます。

 

龐統

 

功曹とは官吏の採用や能力査定などを行う仕事で、鑑定眼もさることながら人脈も必要となるので郡内の名士や名族の出身者が多く担当する役職です。

 

ゆるキャラ龐統

 

龐統が周瑜に下で働く以前の話は記述がありませんが、劉表(りゅうひょう)の統治下だった頃から南郡で功曹の役職にあり、曹操(そうそう)や孫権と統治者を変えながらもその任に就き続けていたと考えられています。

 

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龐統のスパイ説

劉備に重く採用されなかった龐統

 

そんな龐統は自身の言動や周囲の人間関係などから孫権のスパイであると言われています。例えば、劉備が最初に龐統を県令にした際、孫権の部下である魯粛(ろしゅく)から

 

「龐統に県令なんてふさわしくありませんよ」と取扱説明書が届いています。この件については、後に諸葛亮もフォローしていますが、なぜ魯粛が口を挟んできたのかが疑問です。

 

龐統

 

また、劉備に益州侵攻を決意させたのも龐統ですが、これまで功曹として働いていた人物が魯粛と諸葛亮の推薦があったとはいえ、いきなり軍師として従軍した経緯がわかりません。これは劉備を監視する目的があったのではないかとも言われています。

 

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孫権の狙い

策略が得意な龐統

 

龐統が孫権の放ったスパイであったという前提で話を進めていくと、孫権は劉備の動向を監視する理由があったことになります。

 

周瑜

 

周瑜は生前に劉備を籠絡して関羽、張飛(ちょうひ)を掌中に収め、その上で益州を奪って馬超(ばちょう)と手を組む天下二分を献策しました。

 

劉備と孫権

 

孫権は劉備がいずれコントロールできなくなると却下していますが、益州への侵攻は許可。周瑜は益州攻めの準備をしている最中にこの世を去りました。

 

劉備、孫権、魯粛

 

周瑜の遺言もあって、孫権は魯粛が提案した劉備に荊州を貸し与えて力を付けさせるという方針を採用します。その結果、南郡にいた龐統はそのまま劉備の配下となったわけですが、スパイ任務を仰せつかったのはこのタイミングでしょう。

 

二刀流の劉備

 

劉備が荊州を返すかわからないので保険的な意味合いで監視をさせたと考えられます。加えて、劉備は孫権からの益州へ共同で攻めようという申し出を断っているので、孫権としては「居候のくせに協力もしないし、荊州南郡だけ領有してどうするつもりだコイツら・・・」と、その後の動向も探る意図があったのかもしれません。

 

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孫権の益州攻略作戦

劉備と張松(ちょうしょう)

 

さて、ここからは完全に筆者の妄想です。

 

法正、劉璋、劉備

 

劉備の元には張松(ちょうしょう)や法正といった益州を献上したい組が訪れるようになり、龐統の報告でそれを知った孫権は劉備に揺さぶりをかけるつもりで龐統に益州攻めを提案させます。

 

舌戦で煽るのがうまい諸葛亮孔明

 

諸葛亮の当初の方針もあり、劉備はそれを採用。

 

「マジか、こいつ・・・」と思いながらも孫権は龐統を使って劉備の不利益になるような策を提案し、なんとか労せずに自身が益州を掌握する方向へとシフトチェンジ。

 

宴会をして劉備をもてなす劉璋

 

劉備が宴席で劉璋(りゅうしょう)を捕らえて居たら当然益州の民は批判をするでしょうし、不安にもなります。そこへ孫権が救援目的で益州へ侵攻。悪者である劉備を討伐するのが目的なので、劉璋側も兵を貸さないわけにはいきません。

 

劉璋

 

そうすることで孫権は曹操との戦線を維持しながら少ない労力で益州攻略の足がかりが作れます。仮にうまくいかなくても、劉備と劉璋が本格的に開戦すれば双方が疲弊したタイミングで出兵も可能です。

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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