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最強バカ簒奪者、司馬倫
司馬倫は司馬懿の9男にして末っ子で母は柏夫人でした。
西暦265年に甥の司馬炎が西晋を建国すると琅邪王に封じられます。しかし、司馬倫は正真正銘のDQNであり、学問しなかったので書物も読めず国政を取り仕切る能力が著しく欠けていました。それ以前にモラルがなく、皇帝司馬炎の衣服を盗もうとして発覚し、司馬炎の温情で見逃されたりしています。
294年には関中の守備を命じられますが、刑罰が不公平で氐、羌、匈奴の反乱を招きます。司馬倫は討伐に向かいますがアホなので軍備も整えられずクビになり司馬肜と交替。
DQN司馬倫ですが、側近孫秀の助言は素直に聞き、皇后賈南風に取り入り賈南風が英明な皇太子司馬遹を排除しようと企むのを聞き、賈南風を唆して司馬遹を殺害させます。
その後、司馬倫は挙兵し賈南風一派を皇太子殺しの罪で排除する事に成功しました。
司馬倫の独裁に対し、司馬氏の強力な諸侯王、斉王司馬冏、成都王司馬穎、河間王司馬顒の三王が挙兵。孫秀と司馬倫は兵を出してこれを何とか阻止します。中央権力を掌握した司馬倫に淮南王司馬允が蜂起しますが司馬倫は鎮圧。これを契機に自分に敵対する勢力を冤罪で皆殺しにしました。
司馬倫は、301年恵帝から帝位を奪って皇帝を僭称しますが、あまりの暴政に左衛将軍王輿と尚書広陵公司馬漼は司馬倫排斥を目論み700人余りの兵を率いて宮中に入り孫秀等側近を殺害。司馬倫を捕らえ金屑酒を飲ませて自殺させました。
司馬倫は最後まで自分の非を認めず、孫秀が朕を誤らせたと言い続けていたそうです。
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奇行のお陰で天寿を全う司馬榦
司馬榦は司馬懿の7男で生母は張春華、司馬師、司馬昭の同母弟です。
西暦265年に甥の司馬炎が晋を建国すると平原王となりますが、司馬榦は性格が純粋にすぎて精神に障害があるとの事で地方に行かずに特例で洛陽に留まります。その後も司馬榦は順調に昇進して序列は三公に次ぎますが、司馬榦は自ら政務を執る事はなく、ただ有為の人材を抜擢していました。
司馬榦は、精神性と考えられる奇行が多く、爵位や俸禄はゴミのような扱いで、秩禄や布帛は庭に山積みにして腐らせ人が来てもなかなか合おうとしません。また、愛妾が死ぬと棺に入れるものの釘は打たず、まるで生きているかのようにウヒョし、遺体が腐敗しはじめると初めて葬りました。
今で言うネクロフィリアですが、他人との対応は穏やかで、まるで落ち度がなかったそうです。司馬氏が八王の乱で衰弱すると世捨て人のようになり、屋敷に閉じこもり権力者とは誰とも会わなくなりました。
世人は司馬榦がオカしくなったとして憐れんだので、洛陽で目まぐるしく政権が動いても司馬榦を害するものは出現しませんでした。その事もあり西暦311年、80歳まで長生きし天寿を全うしています。
司馬榦は無能ではないものの精神疾患から、晋の時代にはほとんど活躍する事が出来ませんでした。
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司馬懿の息子ワーストは?
まとめてみると司馬懿と張春華の間に生まれた。司馬師、司馬昭、司馬榦は少なくとも無能ではないと言えます。
一方で、司馬懿と伏夫人の間に生まれた。司馬亮、司馬伷、司馬京、司馬駿は人柄は良かったものの無能か、早死にで晋王朝の安定には、あまり貢献していないでしょう。
司馬懿と張夫人との間に生まれた司馬肜は、史書に無能と書かれる人物であり、清廉で公平というのも気に入らない部下を戦争で死に追いやるのを見ると怪しく、最後には風見鶏となって、権力を握った諸侯王に迎合するなどとても評価できません。
そして、司馬懿と柏夫人の間に生まれた司馬倫は、満場一致のウルトラバカで司馬懿の息子でも最悪の1人。三王挙兵からクーデターで自殺を強いられるまでに、10万人規模で人が巻き添えで死んでいるので、司馬懿の息子ワーストと言えます。
本当の原因は宗族を甘やかした司馬炎!
こうしてみると、司馬懿の末っ子の司馬倫こそが最悪のDQNですが司馬倫以外にも、とんでもないDQNが掃いて捨てる程、司馬氏には出てきます。
その大きな原因は司馬炎が、司馬氏の宗族を重用しながら西暦275年に司馬亮を監視・取り締まり役に任命するまで、宗族を野放しにしていた事でした。天下の支配者である司馬氏に生まれ、この世の贅沢を極めながらその行動を誰も注意しないとなれば、どれだけ才能があろうと歪んでしまうに決まっています。
また、監督した司馬倫もあまり人を御する才能が無さそうな人物であり、宗族の増長は止む事が無かったと考えられます。これこそ時代が経過するにつれ、司馬氏にDQNが続出する理由でしょうね。
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三国志ライターkawausoの独り言
司馬炎が曹丕の半分でも司馬一族に厳しい目を向けて、その制御を図っていれば、次々とDQNが続出して暴れ回り、八王の乱が起きる事もなかったでしょう。人間はやっぱり子供時代の教育が大事ですね。
参考文献:晋書
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