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理由1:重要な場所の地理に詳しかった
姜維は天水の出身、王平は漢中で働いていました。どちらの地も魏軍と何度も争いになった場所であり、大変に重要な地でした。
蜀軍は荊州や益州の武将が中心であったため、そのあたりの事を熟知していた者は少なかったと考えられます。その為、姜維、王平の地理の知識は大いに役に立ち、軍の中心として活躍できたのでしょう。
理由2:異民族対策
当時は異民族が度々反乱を起こし、その対応に苦慮していました。姜維の父は異民族の反乱の鎮圧で戦死しており、姜維自身も異民族を身近に感じていたに違いありません。
後に姜維は異民族の慰撫や、彼らを味方につけるなど、異民族の対応に大いに活躍しました。王平も異民族の部隊にかつて所属しており、そもそも王平は異民族出身の可能性があります。
どちらにせよ、彼らについてはかなり詳しかったと考えられます。
理由3:蜀軍の人材不足
「三国志」といっても蜀は地方を収めているにすぎず、魏や呉に比べると圧倒的に人材が不足していました。
特に諸葛亮が指揮していた時代は、関羽、張飛、趙雲と言った歴戦の名将がことごとく亡くなっており、まだ人材もそろっていませんでした。その為、魏で身分が低いとはいえ軍事を担当していた二人は蜀にとって貴重な戦力だったと考えられます。
三国志ライターみうらの独り言
蜀の末期は明らかに人材が不足しており、姜維、王平の存在はとても貴重な物だったのでしょうね。大きな組織で働き場が無くても、場所を変えれば力を発揮するというのは今の時代でも見られることで、諸葛亮の人材を発掘する力は参考になりますね。
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