魏からの降将である姜維と王平はなぜ蜀軍の中心になったのか?

2021年6月17日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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理由1:重要な場所の地理に詳しかった

祁山、街亭

 

姜維は天水の出身、王平は漢中で働いていました。どちらの地も魏軍と何度も争いになった場所であり、大変に重要な地でした。

 

 

蜀軍は荊州(けいしゅう)益州(えきしゅう)の武将が中心であったため、そのあたりの事を熟知していた者は少なかったと考えられます。その為、姜維、王平の地理の知識は大いに役に立ち、軍の中心として活躍できたのでしょう。

 

理由2:異民族対策

反乱を起こす羌族

 

当時は異民族が度々反乱を起こし、その対応に苦慮していました。姜維の父は異民族の反乱の鎮圧で戦死しており、姜維自身も異民族を身近に感じていたに違いありません。

 

羌族に援軍してもらうよう使者を出す姜維

 

後に姜維は異民族の慰撫や、彼らを味方につけるなど、異民族の対応に大いに活躍しました。王平も異民族の部隊にかつて所属しており、そもそも王平は異民族出身の可能性があります。

 

どちらにせよ、彼らについてはかなり詳しかったと考えられます。

 

理由3:蜀軍の人材不足

祁山、街亭

 

三国志」といっても蜀は地方を収めているにすぎず、魏や呉に比べると圧倒的に人材が不足していました。

 

亡くなる張飛将軍

 

特に諸葛亮が指揮していた時代は、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)と言った歴戦の名将がことごとく亡くなっており、まだ人材もそろっていませんでした。その為、魏で身分が低いとはいえ軍事を担当していた二人は蜀にとって貴重な戦力だったと考えられます。

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

蜀の末期は明らかに人材が不足しており、姜維、王平の存在はとても貴重な物だったのでしょうね。大きな組織で働き場が無くても、場所を変えれば力を発揮するというのは今の時代でも見られることで、諸葛亮の人材を発掘する力は参考になりますね。

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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