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劉曄とはどんな人?人物観察が百発百中、予言者のような軍師の生涯

2021年7月5日


 

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劉曄

 

劉曄(りゅうよう)は光武帝の子、阜陵王劉延(ふりょうおう・りゅうえん)の血筋を引く後裔(こうえい)です。少年時代からやる時はやる人で、亡母の遺言を実行して13歳で父の知人を殺害したり、数千の私兵を擁する小群雄の鄭宝(ていほう)を、刺客を待ちきれず自分で殺害する等、後漢のプリンスにしては血を恐れない豪胆な人物で少し劉備(りゅうび)に似ています。

 

一方、曹操に仕えた後の劉曄は、荒々しさが消え人物観察が百発百中の軍師へと早変わりするのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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13歳の時、母の遺言を守り父の部下を殺害

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

劉曄は字を子揚(しよう)と言い、淮南成悳(わいなんせいとく)の人で漢の光武帝の子である阜陵王劉延の後裔。父は劉普(りゅうふ)、母は(しゅう)と言い同母兄に劉渙(りゅうかん)がいました。

 

劉曄が7つの時に、母の脩は病気に苦しみやがて臨終しますが、死の床で劉曄と劉渙を呼び、とんでもない事を言い出します。

 

「夫が親しく付き合っているあの部下は()(へつら)う性質です。私の死後に家を乱すかも知れません。今(おそ)れるのはその事のみです。お前達が成長し、部下を除く事が出来れば思い残す事はありません」

 

 

おいおい!お母さん、子ども達に何とトンデモナイ事をと突っ込みたくなりますが、この遺言を劉曄は大真面目に聞いていました。

 

劉曄は13歳になると2歳上の劉渙に

「今こそ亡き母の言葉を実行すべきです」と言います。しかし劉渙は「父上の部下を殺すなんてとんでもない」と賛成しませんでした。

 

そこで劉曄は単独で入室して父に侍る部下を斬り殺し、ただちに外に出て母の墓に報告します。人々は大いに驚き、劉普に告げると劉普は激怒して人を遣わして劉曄を追わせました。

 

劉曄は帰還すると陳謝して「亡き母の遺言です。前もって許可を受けずにやった事の(とが)なら甘んじて受けましょう」劉普は心中で思い当たる点があり、劉曄の罪を問いませんでした。

 

劉曄は子供でも、やる時はやるという空条承太郎(くうじょうじょうたろう)のようなタイプだったのです。

 

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私兵団のボス鄭宝に強引にスカウトされる

 

劉曄が成人した後、天下は乱れはじめ、揚州の鄭宝(ていほう)という男が私兵を集めて江表に割拠しようと野望を見せます。鄭宝は勇猛で決断力があり、人に抜きんでた才能があり一地方で懼れられましたが、いかんせん身分が低い事がネックでした。そこで漢室に連なる名族である劉曄に

 

鄭宝「お前さんがボス、俺はナンバー2、それでこの土地は安寧に治まるだろう。どうだ俺の大将にならねえか?言っとくが嫌とは言わせねえぞ」と東映V(ブイ)シネマの主人公のようなドスの効いた声で脅します。

 

断ったら殺されるとガクブルの劉曄ですが、その頃、たまたま曹操の使者が揚州にやってきて土地の実態調査を開始。それを知った劉曄は使者の下に足を運び、数日間も滞在しました。

 

鄭宝も曹操の使者が来た事を知ると数百人を従え牛と酒をもたらして使者のご機嫌(うかが)いにやって来ます。劉曄は下僕に命じ、鄭宝一行を中門の外に座らせて酒宴を開き、鄭宝と共に宴を楽しみました。そして、密かに壮士を集めて泥酔した鄭宝を斬ろうとしますが、鄭宝は酒が好きではなく、あまり飲まないのでいつまでも素面です。

 

真っ二つにされる魏続(ぎぞく)兵士

 

酌人(しゃくにん)も「斬れ」の一言が出ず、焦れた劉曄は自ら刀を抜いて鄭宝を斬殺。その首を獲ると

 

「これは曹操の命令である!動こうとするものがあれば鄭宝と同罪とする」と釘を刺しました。

 

孔明のテントがある野外のシーン

 

鄭宝の手下数百名は、懼れて陣営に逃げ込み、逆襲を警戒した劉曄は鄭宝の馬に乗って陣営に乗り込みます。そしてリーダーを呼び出し、これが曹操の命令である事を布告するとリーダーも恐れ平身低頭し劉曄を迎え入れました。

 

ここで劉曄は不安を持っている数千の兵士に「悪いのは鄭宝だけで、お前達に罪は及ばない」と懇々と説得。その後、鄭宝の兵力を劉勲(りゅうくん)に譲り渡し自分も支配下に入りました。兵力を譲られた劉勲は、当初不審に思い「なんで兵力を手放すのか?」と劉曄に質問すると

 

「この連中を率いていた鄭宝はVシネに出てくるような悪党で残忍非情だった。ボスがそうだから子分もそうで、僕にはこの連中を食わせる資産もろくにない。このままだといずれ恨まれて殺されるから、君にやるよ」と答えたそうです。

 

こうして劉勲の配下になった劉曄ですが、劉勲は孫策の計略にハマって大敗。ボロボロになって曹操を頼り、劉曄もやむなく曹操に仕える事になります。

 

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まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

隴を得て蜀を望む

五斗米道の教祖・張魯

 

曹操に仕えた劉曄は主簿(しゅぼ)として張魯征伐に従軍します。

 

張衛(張魯)

 

しかし、陽平関に籠城した張魯と弟の張衛(ちょうえい)は堅く守ってビクともしないので、元来飽きっぽい曹操は「退却だ!退却」と劉曄に部隊の後退を命じます。

 

三国志 剣閣のお城

 

ところが劉曄は

「張魯には勝てます。このまま攻め続けるべきです。それに、ここで退却しても糧道が続かないので、兵力を温存して帰還できませんぞ」と戦争の継続を司馬懿と訴えたので曹操は考えを変えてもう少し攻めると劉曄の進言通りに漢中を落す事が出来ました。

 

ここで、さらに劉曄は蜀の劉備まで落とすべきだと曹操に進言

 

曹操から逃げ続ける劉備

 

「劉備は人傑ですが、行動がカメさんなので今でも蜀人の心を掴んでいません。それに漢中が落ちた事で蜀人は動揺し、殿の威信になびいているので今ならば檄文を出すだけで蜀を落とす事が出来ましょう。グズグズしていると内政手腕がある諸葛亮が宰相となって国力を高め、関羽と張飛が三軍を率いて要害を守るので、二度と落とすチャンスは来ません」

 

 

ですが、曹操は危ない目にもあったし長期間(ぎょう)を離れるのが不安なので、「人の欲には限りがないなぁ、(ろう)を得てさらに蜀を望むのかィ?」と(うそぶ)きそのまま帰還していきました。

 

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光武帝

 

孟達の将来と劉備の仇討ち

孟達が魏に寝返って歓喜する曹丕

 

西暦220年、蜀将の孟達が手勢を率いて魏に下りました。孟達は容姿と立ち居振る舞いと才能に優れ、文帝、曹丕はこれを寵愛し国境の新城太守とします。

 

しかし劉曄は「孟達は目先の利益に走りやすく自分の才能を頼んで己惚れているので、必ずや恩を仇で返す結果を招きます。新城は呉や蜀と近く、もし変化が生じれば国の為に憂いを生じましょう」と諫言しました。

 

孟達を討伐する司馬懿

 

曹丕は劉曄の意見を無視しますが、果たして孟達は曹丕の死後に諸葛亮に通じ司馬懿に討たれました。さらに劉備が関羽の仇討ちで兵を出すかどうかを曹丕が群臣に尋ねた時、多くの群臣は

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

「蜀は小国で名将は関羽のみであり、関羽が死んで国内は懼れ憂いており遠征する余裕などありません」と楽観しますが、劉曄は、

 

ブチギレる劉備

 

「蜀は小さく弱いですが劉備の計画は武を示して強くなる事であり、時の勢いで必ず軍勢を用いて天下に余力を見せます。しかも劉備と関羽は、立場上君臣でも恩愛は親子に等しく、関羽が死んでも報復できないようなら武人の一分が立ちません。よって、必ずや劉備は軍を興して呉を攻めるでしょう」

 

このように警告し、その通りになりました。

 

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夷陵の戦い

 

 

孫権の内心を見透かす

孫権に気に入られる孫峻

 

劉備が攻めて来た時、孫権は急いで魏に臣従します。群臣はこれを喜びますが、劉曄は孫権が本当に降伏したわけではなく蜀に攻められて、二正面で敵を得るのを恐れているだけだと見抜きました。

 

呉蜀と魏に二股をかけている孫権

 

やがて、劉備が夷陵(いりょう)で呉の陸遜(りくそん)に敗れると孫権は手の平を返して魏から離れて自立。怒った曹丕は呉に攻め込む事を決意しますが、劉曄は「呉は窮地を切り抜けたので、今倒すのは容易ではありません」と反対します。

 

曹丕に進言をする劉曄

 

もちろん、曹丕は聞かずに攻め込んで、何度も敗北。頑固な曹丕も劉曄の意見が正しかった事を認めざるを得ず、潔く謝罪し

 

(けい)の見立てが正しかった。今後は朕のため呉蜀を打ち破る方略を考えてくれ。ただ朕のやりようを見て批評するだけではいかんぞ」と言ったそうです。しかし、その後も劉曄は、曹丕に対し呉蜀征伐の献策をする事はありませんでした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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