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龐統死す!法正が取った計略は?
しかし龐統は順調に攻略を続けている途中、雒城で流れ矢に当たり帰らぬ人になります。
龐統が死んだ時、劉備は幾日も嘆き悲しんだとされますが法正については、どうしていたか記述がありません。ですが、ここで初めて法正は成都の劉璋に対して降伏勧告文を送りつけています。
タイミング的に龐統が死んでしまい実戦の指揮官が失われたので、この辺りで柔の路線に転換し、あわよくば劉璋を降伏に追い込めると考えたのかも知れません。ただこの時点では劉璋は法正の降伏文書を黙殺しています。
龐統が戦死し大苦戦した雒城ですが、ようやく守将の張任を捕らえる事に成功し陥落させました。
ここから劉備軍は成都を包囲するだけとなり、趙雲や諸葛亮、張飛などの援軍も到着し、馬超までが投降してくるラッキーもあり、劉璋も十日後には降伏します。龐統と法正は、それぞれ派閥も違えば考えも違いますが、劉備の蜀獲りについてはお互いに足りない部分を補いあいコンビとして上手く機能したと言えるでしょう。
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三国志ライターkawausoの独り言
正史三国志は複数の列伝を同時期で比較する事で、それぞれの人物の関係と行動に関連性が見えてきます。特に龐統と法正はどちらも謀臣として1つの巻にまとめられるほどに似たようなカテゴリーだと認識されているのですが、こうしてそれぞれの列伝を比較すると単独では見えてこなかった行動の理由が分かってきて面白いですね。
参考文献:正史三国志
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