司馬懿の活躍の時代
因みに三国志演義の影響から、対蜀と思われがちな司馬懿ですが、実際には対呉がメインです。第三次までの諸葛亮の北伐を防いでいた曹真が病死したことで、その代打として司馬懿は蜀方面を任されます。
このためか最初の戦いでもある祁山の戦いでは張コウらの反対を押し切って追撃、敗北、しかも後に張コウに追撃をさせて戦死させています。これは司馬懿最大の失態とされていますが、それ以降は粘り強い戦いで勝利を収めていますね。そういう面も含めて、実は司馬懿の最大の活躍は曹操がいた時代でも、曹丕の代でもなく、曹叡の代以降になってからなのです。
【北伐の真実に迫る】
その死
司馬懿、というよりも司馬家が実権を握ったのはある種政敵とも言える曹爽を追い落としてからです。しかしその後も司馬懿は丞相、相国への就任要請を死ぬまで断り続け、亡くなった後には太祖霊廟の広場に最上位で配置されました。このことからも、当時の人々は司馬懿をあくまで「魏の忠臣」として扱ったことが分かります。
司馬懿の存在
司馬懿に一切の野心がなかったとは、言いません。というよりもこの時代に、一切の野心がなかった人物の方が珍しかったでしょう。しかし司馬懿の行動は、その時代の行動だけを追ってみるとあくまで魏の臣下であり、忠臣といっても差し支えない働きです。
ではどうして司馬懿の野心家イメージが先走るかと言うと、晋の存在が大きいでしょう。彼自身がどうであれ、彼の息子たち、そして孫が魏の終焉を作ってしまった……そして何より、その晋自体も(よりにもよって)司馬家の内輪揉めで終焉していきました。
このような事態を私たちはどうしても「未来」の立場から見てしまっているため、司馬懿の時代の「現実」にどうしても結果ありきの判断をしてしまっています。
このため「晋の時代すら司馬懿の手の内なのでは……なんというやしんか!」というイメージが付いてしまったのではないか、と考察しました。
その埋葬
さて、くどくどしいお話が続いてしまったので、最後はちょっと味を変えてまとめましょうか。司馬懿が活躍した、その実績を挙げたのは魏の時代でも後期です。主に曹叡、そしてその後継者である曹芳の時代なのですね。そして司馬懿はその死後、遺言によって首陽山に埋葬されました。
そして首陽山には、曹丕の陵が在ります。司馬懿にとって、自分の時代は一体いつだったのか。それはもう司馬懿にしか分からなかったのかもしれませんね。
三国志ライター センのひとりごと
今回は、三国志の武将たちのイメージ、について、そしてそこから司馬懿について、考えてみました。そして考えてみて分かったのは、あくまで私たちは未来の立場から全てを見て、考えてしまうことがあるということです。
これを踏まえて、今後はフィルターを通して考えすぎないように、多角的な目線で物語を見なければいけないな、という気付きを得た筆者。
今後はより注意しつつ、三国志の沼にハマっていこうと思います……どぼん。
参考文献:晋書帝紀第1 宣帝 魏書文帝紀 明帝紀
関連記事:司馬懿を招いたのは曹操ではない!曹操の誘いを断った逸話はどうやって生まれた?
関連記事:張春華とはどんな人?実は晩年まで司馬懿とラブラブだった?
関連記事:史実の司馬懿と三国志演義の司馬懿のイメージの差異を考察