グダグダな同族での争いも末期が近付き、それに追従するかのように晋王朝も末期が近付いてきました。そんな中で今回ご紹介するのは賢人と称えられ、慎ましやかな性格であると言われた魏の忠臣、司馬懿の弟、司馬孚の孫に当たる人物。
八王の乱のメンバーの一人、司馬顒についてご紹介しましょう。
※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきますので胃薬のご用意などをおススメします。
河間王・司馬顒
前述したように、司馬顒は司馬孚の孫に当たる人物です。司馬孚は嘗て、魏皇帝・曹髦が暗殺された際にその遺体に縋りついて号泣し、その葬儀に置いても甥の司馬昭に反対し、王侯の格式を持ったまま葬儀を執り行わせた魏の忠臣でした。
在りし日の公務の際には常に兄を立て、慎ましやかで誠実、晋書においても「人を恨んだことがない誠実な人物」と言われた人物です。
そんな人物の孫である司馬顒は幼い頃から周囲の評判が良く、司馬炎からも「諸国の模範である」と絶賛されていました。
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大きな軍事力を持つ
299年に平西将軍へと任命されて長安へと出鎮。晋王朝は基本的に一族に要所を任せるのですが、この時、関中の土地を任せられる人物がおらず、白羽の矢が立ったのが司馬顒です。
関中は異民族の反乱が常に警戒されており、このためそんな土地を任せられた司馬ギョウは必然的に大きな軍事力を持つことになってしまいます。これが後のグダグダ悲劇に繋がります。
司馬倫、司馬ケイからの警戒
301年、司馬倫は恵帝を退位に追い込むと同時に、司馬ギョウを警戒します。
ここで司馬ケイが反乱を起こし、最初は司馬ケイと対立して討伐軍を向かわせた司馬ギョウ……でしたが、司馬ケイに味方が多いと判断するや否やさっさと司馬倫を見限ります。
司馬倫は司馬ケイに敗れ、司馬顒は勝利者である司馬ケイに付くことができるも、当然ながら司馬ケイは司馬顒のことは信用しておらず、おそらく司馬顒もそのことは分かっていたのでしょう。
司馬ギョウは長安に戻る際に家臣を残しておきますが、これが司馬ケイの家臣と険悪になり、長安に逃げてきました。逃げてきた家臣は叱責を恐れたのか、とんでもないことをやらかします。皇帝の密勅を偽造し「皇帝より司馬ケイ討伐の密命が下りました」と言ったのです。
司馬乂の殺害に至る
この際に司馬ケイを殺害するための使い捨ての駒として司馬乂を利用することを進言されるのですが、司馬乂が想像以上に活躍、彼の手柄となって権力は司馬乂に集中します。
この際に司馬乂を取り除くべく、再びあの逃げてきた家臣・李含を刺客に送り込むもあっさり看破、暗殺者らは処刑されます。これを口実に「奸臣・司馬乂を討て!」と司馬エイと手を組むも、恵帝から逆賊認定され、追い込まれます。
司馬乂は最終的に東海王司馬越の裏切りにより捕縛、彼の人気と影響力を恐れられ、生きたまま焼き殺されるというとんでもない方法で殺されました。
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司馬穎の排除
こうして朝廷の権力を掌握した司馬穎はやりたい放題をやらかし、司馬越が討伐軍を動かします。
ここで司馬穎救援に駆けつけた司馬顒でしたが、既に司馬越は敗北しており、洛陽を落とします。しかし調子に乗ったのか司馬穎は次に都督幽州諸軍事・王浚を引き込んだ司馬越に敗北。
恵帝を連れて逃げた司馬顒は長安を都としようとするも、既に人望を失っていた洛陽の幕僚たちはそれについて行かず、晋王朝は二つに分かれた状態で政治を執り行うというとんでもない事態になったのです。
因みにここまでで司馬エイは南匈奴の王子・劉淵に南匈奴の兵力を結集させる承認を出してしまうという致命的な失態を犯し、
劉淵はそのまま晋王朝から独立、晋王朝の中華統一は完全に崩壊しました。
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司馬ギョウの終焉
司馬顒は司馬越と対立することになりますが、当然ながら戦力が違い過ぎました。敗北に敗北を重ねて和睦しようとするも拒絶され、主戦派の張方の首を差し出すもそれによってより自軍の崩壊と敵軍の士気が上がる始末。
全てを失い、単独で長安に戻るしかなくなった司馬ギョウと、いい加減戦うのにも疲れた司馬越は和睦を結びます。司馬越は有利な状態での和睦を望んでいたからの判断でしたが、この際に司馬越の弟が単独で司馬ギョウを殺害してしまい、司馬顒はこの世を去ります。
306年、ようやく八王の乱が終結したのでした。
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