「蜀」は当時の三国時代の「益州」に相当し、劉備が諸葛亮らの助けを得て建国した場所です。
蜀は当時から「天然の要害」と言われていますが、それは具体的にはどのような場所だったのでしょうか?
今回の記事ではその「蜀」について探ってみようと思います。
この記事の目次
「天然の要害」の意味と「蜀」の場所
「天然の要害」とは「地形が険しく、守るのに有利な場所」を指します。日本では真田幸村らが立てこもった「上田城」などが有名です。そんな天然の要害と言われる「蜀」は当時の行政区分で「益州」になります。今の中国でいうと四川省、湖北省一帯そして雲南省の一部です。
この地は後漢時代には劉璋がおさめていましたが、その支配に満足できない配下らが劉備を招きよせ、のちに劉備が劉璋を追い出し、支配することになります。
益州の地は天然の要害に加え、「天府」(天国)とも言われ、気候も温暖で農業にも適した土地でした。
北部には険しい山々が連なる
蜀の北部には2000メートル級の険しい山々が連なっていました。最高峰の「太白山」は3767メートルで富士山並の高さです。この山々は「秦嶺山脈」といい、ジャイアントパンダなども生息していることで有名です。漢中方面から蜀に攻め入るにはそれらの山々を越えるか、「桟道」を渡らなければなりません。
「桟道」とは崖に穴をあけ、そこに杭を打ち込み、その杭の上に木の板を敷いた道でとても危険です。これらの道は総称して「蜀道の険」とも言われ、唐の詩人「李白」は「蜀道の難は青天に上るより難し」と詩っています。
諸葛亮は「大剣山」と「小剣山」の間に関を築き(剣閣)、蜀の防衛の要としました。関の両端には断崖絶壁がそそり立ち、まさに「天然の要害」にふさわしい威容を見せています。魏の蜀への侵攻の際には、ここに姜維が立てこもり、必死の抵抗をしました。
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東部には「三峡の険」が立ちはだかる
益州東部に位置するのは「荊州」ですが、益州から荊州に行くには長江の流れに乗ればいいだけで比較的容易です。しかし、荊州から益州に攻め入るのは簡単なことではありません。荊州から益州に行くには長江をさかのぼらなければならず、その長江には「三峡の険」と言われる難所がありました。「三峡」とは「瞿塘峡」「巫峡」「西陵峡」の事を指します。
いずれも沿岸には急峻な崖や山々がそびえたち、大軍を率いて上るのは容易なことではありませんでした。この「三峡の険」は急流、障害物、浅い場所と深い場所が入り組んでいたり大変な難所だったようです。ちなみに現在は「三峡ダム」が建設され、長江の流れは大きく変わっているようです。
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【北伐の真実に迫る】
蜀を攻めるには?魏の蜀征伐
三国時代末期、魏は蜀の征伐を決意し、出兵します。蜀の東部は呉の領地ですから、魏は北から攻めるしかありません。魏は「鐘会」「鄧艾」を派遣します。蜀は姜維が「剣閣」に立てこもり、必死の抵抗をします。
流石に剣閣は強固で、数か月にわたり攻防戦が繰り広げられましたが、一向に陥落しません。
そこで鄧艾は剣閣を迂回し、そびえたつ山々を越えて蜀の首都成都を急襲し、蜀を降伏させることに成功しました。
このルートは前人未到であり、鄧艾軍は山を削り、桟道を作り、時には崖から転げ落ちながら必死に行軍したようです。
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