姜維はなぜ段谷の戦いで大敗したの?その理由を考察してみた




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北伐したくてたまらない姜維

 

256年春、姜維(きょうい)は大将軍就任後初、費イ(ひい)の死後からは4度目となる北伐を行いました。

 

姜維と鄧艾

 

しかし、結果は段谷(だんこく)という場所で鄧艾(とうがい)軍に散々に打ち破られるというものでした。このときの損害は将兵合わせて1万人にも及び、その後の蜀漢軍の弱体化、姜維の北伐推進派としての立場を危うくする結果となっています。

 

姜維

 

一般的に考えてこの被害はあまりにも甚大です。なぜ姜維はここまでの大敗を喫したのか、その理由を考えていきましょう。




それ以前の動き

費禕の宴会に呼ばれて毒を塗った刀で暗殺に成功した郭修(かくしゅう)

 

253年、蜀漢の大将軍であった費禕(ひい)が暗殺されたことで、軍権は姜維の手に渡りました。それまで費禕によって小規模な軍事行動しか認められなかった姜維は、これを機に大規模な北伐を行うようになります。

 

すぐに戦争したがる姜維

 

特に254年(第二次)、255年(第三次)の北伐では隴右方面へと進出して、狄道(てきどう)という場所を攻めました。第二次では周囲3県の住民を連れ帰るという戦果を挙げていますし、第三次では王経(おうけい)の軍を打ち破り、あと一歩で城も陥落させられるところでした。

 

剣閣で守りを固める姜維

 

城が陥落していれば隴右より西の涼州一帯は蜀漢の領土になっていたと言われています。この勢いに乗った姜維は256年にも北伐を行いました。




姜維の驕りと誤算

鄧艾と姜維

 

256年、魏の都督隴右諸軍事となった鄧艾は姜維が祁山(きざん)を狙うであろうことを読んでいました。姜維は当初祁山を攻めて麦を収穫し、魏軍を飢えさせつつ魏軍を破るつもりでしたが、鄧艾は姜維の動きに備えていました。そのため、姜維は祁山への進軍を諦めるしかなく、南安方面へと進路を変えます。

 

進軍する兵士c(モブ用)

 

そして督漢中であった胡済(こせい)に祁山の北東にある上ケイ(じょうけいまで進軍し、鄧艾の背後を突くようにと指示を出します。しかし、姜維が上ケイにたどり着いても、肝心の胡済軍は現れませんでした。そして鄧艾軍が姜維軍へと迫り、段谷で散々に打ち破られてしまったのです。

 

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胡済はなぜ来なかったのか?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

胡済が上けいへ来なかった理由は不明です。ただ、段谷の戦い後に姜維が大将軍から降格処分を受けているのに対し、胡済が何らかの罰を受けたという記述は見られません。つまり、胡済には敗戦の責任はなかったということになります。その点を踏まえて胡済が現れなかった理由として考えられるのは2つです。

 

羌族に援軍してもらうよう使者を出す姜維

 

1つは胡済も魏軍によって足止めをくらっていた可能性です。胡済がどこから進軍したかが分かりませんが、恐らく祁山を抜けて上ケイを目指そうとしたと考えられます。しかし、鄧艾は祁山にも兵を置いていたので、その軍によって胡済は防がれてしまったのかもしれません。

 

もう1つは姜維が来てほしいタイミングに胡済が現れなかった可能性です。姜維は南安を目指した日の夜に上ケイへと至っています。しかし、その前には武城山にいた鄧艾軍と対峙していて、勝てなかったために上ケイを目指しました。

 

胡済とどういう相談をしていたかは分かりませんが、姜維は鄧艾軍と戦った後に逃げるようにして上?に至ったので、予定よりも早く到着した可能性があります。それであれば胡済に責任はないので、お咎めなしだったのも納得です。

 

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多数の死者を出した原因

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

作戦が思うように運ばずに敗戦してしまうことは珍しいことではありません。しかし、万単位の死者を出すというのはかなり異常な事態です。姜維が率いていた兵力がどれくらいかはわかりませんが、軍の何割かは失っている規模でしょう。姜維はそれほど戦下手というわけではないはずですが、なぜこれだけの死者を出したのでしょうか。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

その原因は恐らく兵糧不足です。鄧艾は255年に姜維が王経を攻めて、援軍の襲来によって一度撤退した際に、姜維が再び出陣する理由を5つ挙げています。

 

その中に南安や隴西方面に出陣すると羌族(きょうぞく)から兵糧の供給を得る必要があるので、祁山を攻めるであろうと言っています。つまり、姜維軍には兵糧が不足していて、祁山を攻めることでそれを賄おうという腹づもりがあったのです。

 

鄧艾

 

しかし、それが鄧艾が準備をしていたことで頼れなくなってしまい、飢えた状態で鄧艾軍と交戦したために多数の死者を出したのでした。

 

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