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気候による問題
盆地は雨が降りやすい場所ですが、漢中盆地と四川盆地でも夏から秋にかけて、長期間に渡る雨が降っていたようです。前述したように益州の主食は米であり、通常であれば5年ほど保存できますが、雨に濡れてしまうとカビが発生して食べられなくなります。
つまり、この雨の時期を避けるというのも北伐の成功に大きく関わったのではないでしょうか。諸葛亮の北伐は陳倉方面や祁山など食料の豊富な場所へ侵攻していますが、運搬の難しさから現地調達を試みたが、魏もそれを読んでいるので防がれてしまい、撤退を余儀なくされたとも考えられます。
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【北伐の真実に迫る】
姜維の北伐失敗の理由
諸葛亮は前述したように人材不足や運搬の難しさから、北伐に失敗してしまった可能性が高いですが、姜維も同じでしょうか。筆者は別に理由があると思います。なぜなら、後主伝の注釈によれば蜀漢滅亡時の米の量は、わずか40数万石しかなかったからです。
鄧艾伝を参考にすると「3000万石あれば10万の兵が5年は食べていける」量になるので、1ヶ月で50万石は消費するということ。蜀漢も滅亡時には兵士が10万2千人いたようなので、1ヶ月分もなかった計算になります。
比較対象として呉の滅亡時の兵糧は280万石でした。しかも279年には飢饉があったと孫亮伝にあるので、蜀漢の兵糧不足はかなり深刻だったということです。
これは度重なる戦で人口が減少したことや、蔣琬や費禕のような有能な人材も現れず、政治腐敗によって生産能力が低下した可能性があります。
姜維は北伐で国力を疲弊させたことを責められていますが、国内での食料供給が厳しくなっていることから、姜維は麦の栽培や敵地での収穫に頼るしかなかったのではないでしょうか。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮と姜維が兵站維持に失敗した理由は、事情が若干異なるものの、大別すると運搬の難しさと人材の不足が挙げられます。
かつて劉邦が北伐をした際は、蕭何が後方で兵站維持をしっかり行ったように、諸葛亮にも安心して後方を任せられる人物、あるいは大軍を率いる将が必要だったのではないでしょうか。
兵糧の運搬については、劉邦の時代には漢水を使った水運での兵糧運搬ができたようです。しかし、紀元前156年に発生した武都大地震によって地形が大きく変わり、漢中盆地や関中平原へ通じる水路は失われたといいます。
そう考えると、いくら兵糧が十分にあっても漢中から関中へと攻め込むのは、現実的にほぼ不可能だったのかもしれません。
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