殆どが
さて、前述したように張郃は231年に戦死しています。これは三国志時代のかなり末期であり、魏のみならず、呉、蜀でも多くの人物たちが既にこの世を去っている年代です。
例えば夏候惇は220年に、夏侯淵はそれに先駆けて219年に、曹仁は223年に……と言ったように、数多くの曹操の時代の武将たちはこの世を去っているのです。
そう、張郃は数少ない、曹操の代から仕えている名将なのですね。
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司馬懿「計画通り」
因みに既に曹操はおろか、曹丕も亡くなっています。また曹真も既になく、殆どの武将たちが次世代に移り変わっている時代なんですね。
そんな中でまだ生き残っており、しかも歴戦の名将。対蜀を任された自分に異議を唱えることができるような、そんな人物。自分が今後動く時に、邪魔になるかもしれない。
そう思った司馬懿が張郃を無理やり死地に追いやったのでは……?と、推理してみました。
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ともあれ張郃の年齢...
と、言ってはみたものの張郃はおそらくこの時点ではかなりの年齢。周囲を考えてもその内戦線から引いて亡くなるでしょう。だったらわざわざ暗殺することはないのでは……?と、考えたはいいもののここまで結論を出してしまった次第です。
今回はあくまで司馬懿の唯一の失態とも言える張郃の戦死に関して、敢えて、敢えて司馬懿の計画として考察して見た次第です。皆さんはこの司馬懿の唯一の失態に関して、どう思いますか?
良ければご意見を聞かせて下さいね。
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三国志ライター センのひとりごと
今回は推理とも言えない考察をしてみましたが、いかがだったでしょうか。確かに老齢だったとはいえ、張郃をここで失ったのは魏としても大きな損失です。今回はそこに「野心家・司馬懿の策略」をアクセントに添えて考察してみましたが、こういうのもたまにはね?
ということで今回も三国志の沼からお届けしました……どぼん。
参考文献:魏書張郃伝 魏略
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