魏には五将軍、もしくは五大将軍と呼ばれる人物たちがいます。張楽于張徐伝に乗せられている人物たちで、張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃という面子ですね。(因みに朱霊も載っていますが、それはまた別のお話)
彼らは一人一人が名高い名将たちばかりですが、その内の一人、張郃の死に付いて気になる点が……?
「実は張郃は司馬懿に暗殺されたんだよ!」
そんな突飛な話が、今回のテーマです。
張郃という人物
張郃は後に魏の将軍として数えられる人物ですが、最初から魏の将であった訳ではありません。その身は嘗て袁紹軍に在り、いくつもの戦いで活躍していました。しかし袁紹と曹操の戦いでその命運が変わります。袁紹に烏巣の襲撃への救援を進言するも取り入れられず、曹操本陣への攻撃を命じられます。
ですがここに攻略に手こずったために、張郃は全責任をなすりつけられた挙句、曹操と内通している疑惑をかけられ、窮地に陥った彼は曹操に降伏しました。
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魏の張郃となる
曹操の配下となった張郃は数々の戦いで手柄を挙げ、特に定軍山の戦いでは夏侯淵の死後に混乱した兵士たちをまとめるなど、堅実な働きもしています。これらの功績が認められ、220年には左将軍に任命されました。
曹叡の時代には対呉として活躍するも、対蜀に再び任命され、街亭の戦いでは見事馬謖を破りました。この功績から加増され、4300戸となりました。
比較のために夏候惇が207年に加増されて合計2500戸なので、正に張郃は魏の臣下として信頼され、良く働いていたと言えるでしょう。
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張郃の死
しかし、231年の祁山の戦いで彼の活躍は終焉を迎えます。元々対蜀を任されていた曹真が病死し、対呉にいた司馬懿がその任務に任されます。魏略によるとここで司馬懿が張郃の反対に耳を貸さず、諸葛亮軍の追撃をさせたことで張郃は諸葛亮軍に反撃を受け、戦死しました。
張郃の生年は不明なのでこの当時の張郃の年齢は分かりませんが、史料などでは「老将」とされているので、張郃もこの当時はかなりの年齢だったのでしょう。ともあれ三国志時代の英雄がまた一人、命を落としたのでした。
張郃の死因は司馬懿のミス
因みに三国志演義ではあまり良い扱いとは言えない張郃ですが、史実ではかなりの名将です。あの劉備も「張郃やべえわ(超意訳)」という言葉を残しており、蜀の人物たちはかなり張郃を警戒していたと言われているほどです。
そしてそんな張郃を死なせてしまったことは、司馬懿の最大の失態とも言われていますね。しかし、これは本当に司馬懿の失策だったのか?
それを考えるのが今回のコンセプト、実は司馬懿は張郃を失策で死なせたのではなく……全ては計算通りだったのだ!……というのが、今回のテーマです。
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