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なぜ関平でなければいけないのか?
筆者は関羽の死亡の流れを唯一食い止められたのは、関平だったと考えています。その理由は劉備が入蜀の際に荊州の主要な人物を益州へと移してしまい、荊州に残ったのはわずかな人材だけだったからです。
そのため、荊州は関羽の独立国だったとも揶揄されるわけですが、古参の武将ではかえって畏れてしまい関羽をコントロールできなかったでしょう。だからこそ、独立王国のナンバー2とも言える関平が関羽をコントロールする必要があったわけです。
それは孫権との縁談であったり、荊州軍単独での北伐であったり、士仁や糜芳のケアでも良いのですが、傲慢な父の性格をサポートできていれば関羽は荊州北部への侵攻を改める、あるいは侵攻時期をずらしたかもしれません。
つまり、関平は自らの性格や立ち振舞が原因で己の死期を早めてしまったということです。
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三国志ライターTKのひとりごと
三国志時代は儒教思想が広まっていたことを考えると、親兄弟など目上の人に意見をするのは難しかったかもしれません。
しかし、孫権が諸葛瑾の馬面を揶揄してロバに「諸葛子瑜」という札を付けた際、息子の諸葛恪が「諸葛子瑜“のロバ”」と書き足したように、波風を立てずにサポートする方法もあったはずです。関平にそういった器用さがあれば、荊州は「平坦で起伏のない」安定した統治が成されたのではないでしょうか。お後がよろしいようで。
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