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鐘会、反乱を決行するも失敗
鐘会は反乱を決行、成都で宴を開催し、そこに集まった魏の諸将を監禁しました。しかし、諸将の1人が命の危険を感じ、外部と連絡を取ることに成功します。
兵士たちは一斉に壁を登って城門内に侵入します。その混乱の中で鄧艾や劉禅の息子を始め、多くの武将が殺されたといいます。そして鍾会も殺されてしまいます。
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姜維の最期
鍾会は殺され、同じく姜維も殺されてしまいます。その際、姜維の妻子も一緒に殺されてしまったといいます。姜維は魏の兵に切り刻まれ、取り出された肝は一升瓶ほどもある大きなものだと伝えられています。姜維の死因としては奮戦するもずたずたに斬られてしまったことが原因でしょう。
4世紀半ば、武人で歴史家の「孫盛」は蜀征伐の際に成都を訪れました。そして地元の老人たちと姜維の反乱について話が及ぶと、彼らはその時までも残念がっていたらしいです。姜維の反乱は長く語り継がれていたのでしょう。
「三国志演義」での姜維の最期
小説「三国志演義」では反乱が失敗し、兵士が押し寄せた際、姜維は5〜6人を斬り倒すなど奮戦します。しかし、もはやこれまでと思い、最後に「この計画が成功しなかったのは天の意思なのだろう」と自ら喉を切り裂き自害します。
三国志ライターみうらの独り言
姜維は有能でしたが、周囲との政治的駆け引きが苦手だったのかもしれません。死因につながった反乱計画もちょっと稚拙でした。もし反乱が成功していたら、どうなっていたかは気になりますね。姜維が王になったのでしょうか?
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