姜維の死因とは?魏兵に切り刻まれ、肝を取り出された姜維の壮絶な最期に迫る!

2021年9月29日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

姜維と孔明

 

姜維(きょうい)諸葛亮(しょかつりょう)亡きあとの蜀の中心人物です。彼は積極的に外征を行い、魏打倒を目指しますがそれを果たすことはできませんでした。

 

剣閣で守りを固める姜維

 

魏が蜀に侵攻した際には剣閣(けんかく)に立てこもり、武人としての最後の意地を見せますが、結局蜀は別ルートで攻略され、滅亡してしまいます。

 

剣を石にたたきつけて剣を折る姜維

 

さて、蜀滅亡後の姜維はどうなってしまったのでしょうか?

その最期に迫ってみます。先ずは姜維の生い立ちから見てみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



姜維、魏から蜀へ降伏する

姜維

 

姜維は天水地方に生まれ、元々はこの地方の豪族の出身でした。父は異民族討伐などに従軍していましたが、その戦いの中で戦死し、姜維は母子二人で過ごすことになります。後に魏に仕えることになり、父の功績から武将として軍事に携わるようになります。

 

魏から蜀に下る姜維

 

そこに諸葛亮が北伐を開始。周囲が次々に降伏していく中で、姜維の上司は彼の裏切りを疑い、入城を拒否します。居場所がなくなった姜維はやむをえず蜀に降伏することになります。

 

関連記事:趙雲の最後の戦い!第1次北伐における箕谷の戦いに迫る

関連記事:もしも第一次北伐に関羽が生きていたらどうなった?諸葛亮と関羽の共同作戦を考えてみた

 

 

 



蜀軍の軍事を担うも、大願は果たせず

蔣琬(しょうえん)

 

姜維は諸葛亮にその才能を高く評価され、蜀の軍事担当として活躍していきます。諸葛亮の死後は、蔣琬(しょうえん)費禕(ひい)の元で諸葛亮の悲願である北伐を計画しますが、特に内政を重視する費?によって抑えられます。

 

北伐したくてたまらない姜維

 

の死後、軍事権を握った姜維は連年の北伐を敢行。しかし、思ったような成果は上げられず、蜀の国力の衰退を招き、宦官に実権を握られた宮廷の混乱も抑えることはできませんでした。

 

司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

そこに魏が蜀侵攻を開始。

 

剣閣を攻めまくる鍾会、籠城する姜維

 

姜維は「剣閣」にて魏の鍾会(しょうかい)鄧艾(とうがい)の猛攻を必死に防ぎます。

 

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

が、鄧艾が別ルートで蜀の首都成都に迫り、蜀主劉禅は降伏。蜀は滅亡することになります。

 

鍾会から降伏するようにと送られた手紙をシカトする姜維

 

姜維も降伏することになり、姜維と共に剣閣で守っていた諸将は石に剣をたたきつけて悔しがったといいます。

 

関連記事:謀反人の鄧艾はなぜ名誉回復できたの?晋の皇帝・司馬炎と段灼による裏話

関連記事:鄧艾はどんなルートで蜀を急襲したの?前人未到の過酷な山越えの真実

 

トウ艾

 

 

姜維と鍾会、友情を築く

降伏した姜維をもてなす鍾会

 

蜀が滅亡し、姜維は魏に仕えることになります。蜀攻めを行った鍾会は姜維の才能を高く評価していました。

 

劉禅から勅令が届き、鍾会に降伏する姜維

 

鍾会が姜維に

「なぜ降伏が遅れたのだ?」と聞くと姜維は

「これでも早すぎたのだ」と答え、鍾会を唸らせました。

 

自分を気に入る鍾会を蜀の復活に利用できると考える姜維

 

鍾会はかなり姜維に心酔していたようで、同じ車に乗り、姜維が赴く場に同席したりしたようです。

 

関連記事:「劉備くらいにはなれる」と豪語した鍾会、本当に身の程知らずの野望だったの?

関連記事:鍾会とはどんな人?邪悪なエリート官僚が起こした杜撰な謀反劇の顛末

 

鍾会の乱

 

 

姜維、鍾会の叛意を見抜く

鍾会に謀反の疑いを讒言され処刑される鄧艾(トウ艾)

 

鐘会は同じく蜀を攻めた鄧艾を讒言で逮捕させ、蜀の地の実権を握りました。そして密かにこの地での独立を計画していました。

 

鍾会を独立するようそそのかす姜維

 

鍾会と親密になっていた姜維はそれを見抜き、それとなく語りかけました。「君の大功は主君も恐れている。このまま無事でいられるだろうか。韓信(かんしん)(漢の功臣であまりの大功から謀反を疑われた)も結局死んだ。このような場合、引退するか、他の手段をとるしかあるまい。」と。

 

関連記事:鍾会は司馬昭にとっての張良か韓信か?走狗烹らるとはこのことか!

関連記事:韓信が井陘口の戦いで使ったのは背水の陣だけではなかった!

関連記事:背水の陣は韓信だけではなかった!項羽が使った悲愴の決意を示した行動とは?

 

楚漢戦争

 

 

姜維の計画

鍾会と手を組むが後で殺す気満々の姜維

 

姜維は鍾会に魏の諸将を殺させ、彼らが死んだあとには鍾会も殺し、魏の兵もことごとく穴に埋めて、蜀を復興させようと計画しました。

 

そして密かに劉禅(りゅうぜん)に、「陛下、数日の辱めをお忍びください。私は危機に瀕した国を再び安んじ、光を失った日月を再び明るくします。」と手紙を送りました。

 

関連記事:三国志の哀しい一面:蜀滅亡後、劉禅の後宮はどうなった?

関連記事:姜維の北伐は劉禅の意向でもあった?北伐と劉禅の統治を考える

 

劉禅

 

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

-姜維
-, ,