皆様は合肥の戦いはご存知でしょうか。もちろん三国志に造詣に深い方々は知らぬはずなし、寧ろ合肥が華、何か良く分からないけど赤ちゃんが泣き止むってことは知っている……等々、色んな意見が出ると思います。
そんな合肥の戦いに今回はちょっと「物申す」ようなことをしてみようと思います。
合肥という場所
さて合肥の戦いと一口にいってしまっていますが、合肥の戦いと言われるものは幾つもあります。回数にして五回、第一次から第五次合肥の戦いが歴史上にはあるのです。そしてこの呉回……ではなく、五回の戦いは全て呉と魏の戦い。
これほどの回数を繰り返す、それほどまでに合肥と言う土地が呉にとって、魏にとって大事であったことが分かりますね。
関連記事:「魏書」「蜀書」「呉書」から読み取る赤壁の戦いの謎!実際の孔明は何も出来なかった?
第二次合肥の戦い
そんな合肥の戦いの中でも、特に注目されているのが第二次合肥の戦い。215年に行われたこの合肥の戦いを、三国志では主に「合肥の戦い」として取り上げることが多いですね。
さて214年、色々なごたごたに一応の区切りを見つけた孫権、いざ合肥の攻略に取り掛かろうと軍を動かします。そして翌215年、孫権は自ら10万の軍を指揮して陸口からそのまま出撃し、合肥城への攻撃を開始しました。
当時この合肥の防衛に当たっていたのが、張遼、楽進、李典。兵士の数は7,000ほどでした。
関連記事:楽進と張遼の関係とは?実は不仲だった二人の関係性【入門者向け】
関連記事:魏の正史に記録された楽進の功績は無双状態!なぜ『三国志演義』ではこうなった?
絶望の状況(※圧勝)
しかしここから何を書いているのか良く分からないレベルで張遼が大暴れします。7,000人で防衛、対する敵兵は総大将孫権で圧倒的な10万こんな状況下にあって精鋭800人で突撃!
そのまま大暴れして将を二人斬る、そのまま圧倒的な包囲網を突破!
だけど残された兵士がいると分かるとそのまま取って返してやっぱり突破!(※日没まで暴れる)兵量10倍以上にも関わらず大勝利!ついでにいうと張遼、楽進、李典は不仲だったけど皆でしっかり協力した大勝利!
ここまでやっておいて勝利後に
「なんか短足の武将がいた」
「あっ、それ孫権ですよ」
「そうなの?知ってたらちゃんと捕まえたのに……失敗したなぁ」
とか零してしまうからそりゃあ孫権のトラウマにもなっちゃうわ……と思ってしまう合肥の戦い、正に魏の、そして張遼を語るには欠かせない戦いとなりました。
関連記事:孫権vs張遼! 第1次合肥戦役と豪傑・太史慈の最期
関連記事:もしも、合肥の戦いで張遼が孫権を討ち取っていたら三国志はどうなる?
関連記事:合肥の英雄・張遼も曹操並の人材集めに必死だった!?
此処で物申す!
さてここで少し気になるのがその兵力差。前述したように、孫権はここで合肥を攻略しようと10万もの兵士を動員。自ら率いて進軍しています。
そしてこれが215年のことですが、その前後である有名な戦いを見てみるとちょっと違和感があるのです。そこで呉の有名な戦いである赤壁の戦い、そして夷陵の戦いの兵力を見てみましょう。
関連記事:春秋戦国時代に中国では百万の兵力が動員できたのになぜ日本の戦国は十数万なの?
関連記事:赤壁の戦いの時の兵力って曹操軍と連合軍でどれぐらい差があったの?
関連記事:【八陣図】三国志の戦術マニア必見!少ない兵力を多く見せる必殺疎陣とは何?
赤壁、夷陵
赤壁の戦いは208年の冬に行われました。この戦いは呉の命運を賭けた戦いであり、数ははっきりとは分からないものの2万、もしくは3万とされています。おそらくこの当時、かなりの兵士を動員したと思われます。
そして221年、夷陵の戦いでは約5万の兵士が動員されています。この間の215年に合肥の戦いがあったのですが……その合肥の戦いだけ10万とは、呉の国力を考えても多すぎないでしょうか?
関連記事:三国志の兵力は実際にどこまで本当なの?魏呉蜀の兵力の真実に迫る!
関連記事:兵力なし、金なし、でも奮闘して評価を上げた曹操がスゴイ
【次のページに続きます】