大月氏とのつながり
明帝紀には229年に大月氏(クシャーナ朝)の波調が朝貢のために使節を派遣したとあります。これは曹真の功績によるところとありますが、肝心な部分の記載がされていません。
曹真伝から読み解けるのは、諸葛亮の第一次北伐の際に、安定郡の『月支城』に立て籠もった反乱分子の楊條を曹真が降伏させたことのみ。
月氏と月支は文字も似ていることから大月氏と何かしらの関係があったのではと考えられています。さらに大月氏は後漢初期に班超と争って敗北し、そこから毎年朝貢をするようになっているので、その存在は三国時代の人たちにも伝わっていたのかもしれません。
そうであるなら、西方の異民族と手を結び、対魏の戦力とする考えがあった可能性もあります。
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諸葛亮の北伐戦略
諸葛亮は蜀の国力が非常に脆弱であることを理解していたので、直接長安を狙うという無謀な作戦ではなく、魏と涼州との連絡を絶ち、そこから反乱や異民族の懐柔、交易路の確保と管理を行って利益を得ることで魏との戦力差、国力差を埋めようという戦略だったと考えられます。
結果的にはいずれもうまくいかず、魏軍によって阻まれてしまいましたが、蜀の懐事情を理解している諸葛亮らしい戦略と言えるでしょう。ただ、残念なことは諸葛亮には人を見る力がなかったこと。
馬謖が言いつけを守って大軍が通れない街道を1ヶ月程度死守していたなら、すぐには降伏しなかった隴西や広魏も落ちていたはずですし、雍州西部を得ていたなら諸葛亮の作戦も半分近くは成功していたでしょう。
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三国志ライターTKのひとりごと
諸葛亮のあとを継いだ姜維は隴西方面を中心に北伐を行っていて、諸葛亮のように道を寸断するのではなく、自らが直接涼州へ進出しようという動きにも思えます。
諸葛亮は姜維に戦略の概要を伝えていたのかも疑問ですが、少なくとも諸葛亮は大きな損害を出すことを避けたのに対し、姜維はそれほどリスクを考えていなさそうです。ただ、姜維には諸葛亮とは異なる独自の戦略があったのかもしれません。
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