三国志とは後漢から三国時代に活躍した個人の履歴書がまとめられた書物です。だから、重要人物ほど記述の分量が多く、逸話の少ない人や記録が紛失してしまった人の記述は少なくなる傾向があります。
しかし、編纂するのは人間なので、特別大変な功績じゃなくてもインパクトがある逸話を持つ人物は一点突破で載せる傾向であるようです。
今回は、激しい拷問に耐えた事で正史三国志に名を残した蜀の常播を紹介します。
この記事をザックリと解説
では、最初にこの記事をザックリと解説します。
1 | 常播は字を文平と言い、蜀郡江原に生まれた |
2 | 若い頃に広都県に出仕し、主簿、功曹になる。 |
3 | 広都県長の朱游が上司に官の穀物を横領したと 濡れ衣を着せられ逮捕される |
4 | 常播は役所に飛んでいき無罪を主張したので 逮捕投獄され、杖数千回の刑を受ける |
5 | その後、2年間、常播は3人の獄吏に尋問を受けるが、 「まず刑を執行しろ!俺は多くをしゃべらない」と驚くべきドMぶりを示す |
6 | 同僚の主簿、楊玩が奔走して朱游の冤罪を晴らし、
常播も釈放される |
7 | 世間に忠節を讃えられて孝廉に挙げられ
郪県長に昇進。50歳余りで病死 |
以後は、常播について、もう少し詳しく見てみましょう。
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常播とは?
拷問に耐えた事で正史三国志に記録された常播は、字を文平と言い蜀郡江原の人です。
若い頃に常播は県に出仕して主簿、功曹(人事局長)となりましたが、その頃、県長である広都の朱游は、建興15年(237年)に官の穀物を横領したと上官に偽って告発され重罪に処されました。
この時、常播は獄に飛んで行って上司である県長の無罪を主張します。すると当然、「功曹風情が、お上の決定に意見するのか!」とブチ切れられ、常播も収監され、数千回も杖でシバかれました。
あまりの拷問で、常播の肌膚は切り刻まれて流血し、傷は化膿して膨れ上がり寝る事も出来ない激痛でしたが、常播は「県長が無罪である」という自節を曲げず、獄吏を変える事3名、二年余りも牢獄に幽閉され拷問を受け続けます。
ここまででも、かなり強烈なんですが、この後、常播は性癖?と思えるようなおかしな行動に出ます。
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俺を杖で打て!多くを聞くな
拷問をおこなう前に獄吏は、「どうしてお前は、朱游をかばい立てするのか?」と尋問しました。
まあ、当たり前で獄吏の目的は尋問して罪人に自供させる事であり、それが出来ないから拷問を使用するわけで、なにも好き好んで罪人を杖で打ちたいわけではないからです。
ところが常播はこれに答えず、言うには
「とにかく急いで俺を打て!多くを質問するな」 言葉はついに挫けなかった。
いやいやいや、自分から杖を要求してどうするの?
なんとなく勢いで美談にされているけど、質問には答えないで、ひたすら杖で打てと望む罪人相手では、獄吏もさぞかし迷惑したでしょう。これじゃあ、ドMの常播をドSの獄吏が要求通りに杖で叩く変な図式になっちゃいますよ。
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惜しくも?無罪放免
なんとなくドM疑惑が止まらない常播ですが、同僚で主簿の楊玩が奔走し、遂に朱游は死刑を免れました。常播への拷問もこの時点で中止された事でしょう。人々はみな、常播が県長の為に身の苦痛も忘れて無実を訴えた抗烈な節義を讃えました。
そして、恐らくこの拷問に耐えた事が評判となり、孝廉に挙げられて郪県長に昇進し、齢五十余で死んだそうです。この話は評判になり、後に県令である潁川の趙敦が常播の肖像画を描いて褒め称えたのだとか…
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恐らく証拠を持っていなかった常播
それにしても、弁明はしない!杖で打てとはあまりにも逆立ちした話です。これは推測ですが、常播は県長が無実であるという確かな証拠を持たず、ただ、県長は良い人だ横領なんかするはずがないという正義感だけで突っ走ったのではないでしょうか?
西暦237年は、すでに諸葛亮が没していますが、蔣琬は存在して漢中で執務している時ですから、いかに証拠がないとはいえ、拷問しても自節を曲げない常播の話が、蔣琬まで伝わり、朱游の処分は保留になっていたのかも知れません。ここで、同僚の楊玩が動き、とはいっても、どんな無実の証拠を掴んだのかは明らかではありませんが、とにかく嫌疑は晴れたという事でしょうか?
だとすれば常播は蜀の人々に朱游は無実だと訴える為の手段として、敢えて拷問を受け続けたとも考えられます。
これだと、常播は黄蓋の苦肉の策を超えるとんでもない策士という事になりますね。ただ、苦肉の計と比較しても、どう考えてもコスパは合わないですけど
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は、2年間も拷問を受け続けて上司の無罪を証明した常播を紹介しました。コスパはともかくとして、なんとしても無実の上司を救いたいという常播の男気は、賞賛に値すると思います。だからこそ、正史三国志に常播は記載されたのでしょう。
参考文献:正史三国志
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