李邈とはどんな人?劉備、孔明、劉禅に毒舌を吐いて殺害された蜀の禰衡

2021年10月27日


 

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禰衡

 

三国志一の毒舌野郎と言えば禰衡(でいこう)です。彼の病的な他者批判は病的で自分の舌で身を滅ぼした典型例と言えます。しかし、毒舌キャラは禰衡だけではありません。

 

李邈

 

劉備孔明、劉禅に仕え、最後には温厚な劉禅にキレられ殺害された李邈(りばく)もいました。今回は危険な毒舌野郎、李邈について紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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李邈とはどんな人?ザックリ

人形劇三国志の語り手風 kawausoさん、おとぼけさん

 

では最初に、李邈についてザックリと解説します。

 

1 李邈は李邵(りしょう)李朝(りちょう)の兄で三龍(さんりゅう)と呼ばれる俊才だった。
2 劉璋の時代に牛()県長になり、劉備の入蜀後に従事(じゅうじ)になった。
3 正月元旦に劉備に酒を注ぐ時に、同族の劉璋を(だま)し討ちした事を叱責(しっせき)
役人に処刑されそうになるも諸葛亮が取りなして諸葛亮の配下になる
4 街亭の敗戦で諸葛亮が馬謖を誅殺しようとした時、
貴種(きしゅ)をむやみに殺すと蜀の国力が落ちる」と諫言(かんげん)
怒った諸葛亮により成都に飛ばされる
5 西暦234年、諸葛亮が五丈原で死去。悲しんでいる劉禅に、
虎狼(ころう)のごとき諸葛亮が死んで皇室も北方異民族も憂いが晴れて
全員がハッピー」と進言。
6 激怒した劉禅に逮捕投獄され、誅殺(ちゅうさつ)される

 

ここからは、禰衡に劣らない毒舌野郎の李邈を少し詳しく解説します。

 

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劉備に劉璋を滅ぼしたのはよくない!と毒舌

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

李邈は諸葛亮に重んじられた李邵の兄で広漢郪県の人です。

 

劉璋(りゅうしょう)

 

劉璋の時代に牛鞞県長となり、劉璋の滅亡後、劉備は州牧を兼領した時に従事としました。ここに至るまで李邈には手柄らしい手柄はなく、弟が優秀だからついでに引き立てられた感じです。

 

二刀流の劉備

 

ところが李邈、心臓だけは鉄で出来ていたようで、この後、仕えた劉備に毒舌を吐くのです。正月元旦、李邈は酒を注ぐ役を仰せつかり、劉備の近くで親しく意見を言える状態になりました。

 

そこで李邈は劉備をしかり

 

「劉璋は将軍とは縁続きで骨肉(こつにく)とも言えますのに、張魯(ちょうろ)討伐を命じられてこれを果たさない内に先に劉璋を滅ぼしました。私は将軍が益州を取った事は、はなはだ道義にもとる宜しくない事と考えます」と上から目線で説教したのです。

 

昔の劉備なら、これで簡単に激高(げきこう)

 

ブチギレる劉備

 

「はあああん?てめえ、今なんつった?てめえの尻から漏斗(ろうと)で酒を注ぎこんで、その腹黒い心を洗浄してやろうか?」ぐらいの事は、あいさつ代わりに言いそうですが、そこは益州を領有した余裕と年を食って丸くなった事もあり

 

「それを知っていたなら、なんで劉璋を救わなかったんだい?」と穏便に言い返しました。

 

劉備に毒を吐く李邈

 

すると李邈

「助けなかったのではありません。力が足りなかったのです」と答えています。この問答を周辺も聴いていて、役人は劉備を侮辱した罪で李邈を殺そうとしますが、諸葛亮が「私が引き取りますから、どうか穏便(おんびん)に」と掛け合ったので李邈は罪を免れました。

 

普通なら、この一発でアウトですが、李邈は中々強運でした。

 

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if三国志

 

 

なんで馬謖を殺したの?で諸葛亮にキレられる

馬謖を斬り悲しむ孔明

 

その後李邈は、犍為(けんい)太守、丞相参軍(じょうしょうさんぐん)安漢将軍(あんかんしょうぐん)と累進します。

 

王平は四龍将

 

安漢将軍は、かつて麋竺(びじく)李恢(りかい)王平(おうへい)が就任した将軍位で雑号ではありますが、なかなか重いポストであり、弟が諸葛亮に気に入られていたというだけでは昇進できないので、李邈には長所があったのかも知れません。

 

現時点で、それをうかがえるような逸話はありませんが…

 

敵に囲まれる馬謖

 

建興六年(西暦228年)諸葛亮が北伐を開始し、馬謖が前軍として敗北、諸葛亮がこれを誅殺しようとしました。

 

この時李邈は

馬謖を処刑した諸葛亮に毒を吐く李邈

 

「秦は孟命(もうめい)の失敗を(ゆる)し、西夷(せいい)に伯となるのに起用し、()子玉(しぎょく)誅殺(ちゅうさつ)して、以後、楚の国力はガタ落ちしました。馬謖のような貴種を殺してしまって、あなたは蜀の国力を三流に落したいのですか?」と諸葛亮を諫めます。

 

一番、馬謖を殺したくないのは馬謖を抜擢(ばってき)した孔明ですから、この李邈のしたり顔の諫言は諸葛亮を激怒させました。李邈は参軍の役職を解かれて成都に送り返されてしまいます。

 

孔明

 

それでも孔明は李邈の役職を解いて庶民に落すような事はしていないようで、いくらなんでも、私情で李邈の身分まで奪うのは行き過ぎだと思いとどまったようですね。なかなか我慢強い諸葛亮です。

 

蔣琬(しょうえん)

 

この後、蒋琬(しょうえん)も同じような諫言を諸葛亮にしましたが、これは馬謖を誅殺した後であり、諸葛亮も後悔しきりの時だったので、蔣琬は左遷されませんでした。諫言にもタイミングというものがありますよね。

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

いやー!めでたい諸葛亮が死にました。

劉禅

 

西暦234年、諸葛亮が五丈原で死去、劉禅は簡素な服を着て3日間の哀悼を発しました。ここで李邈は劉禅に上疏しますが、これがとんでもない内容でした。

 

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呂禄(りょろく)(呂后の一族)や霍禹(かくう)霍光(かくこう)の子)は必ずしも反逆心を抱いてなかったし、宣帝(せんてい)は家臣をみだりに殺す事を好みませんでした。それでも家臣は主君に猜疑される事を恐れ、君主は家臣の権勢を恐れ粛清の嵐が吹き荒れたのです。

 

諸葛亮に哀悼をする劉禅に毒を吐く李邈

 

大体、諸葛亮は自分が精強な兵を多く抱えながら、皇室を守る外戚(がいせき)の力を削いでおり、私は、いつ諸葛丞相が反逆するかと気が気ではありませんでした。今、諸葛亮が死んでくれた事で皇室は簒奪(さんだつ)を免れ、北方の異民族も安定を得ています。いやいや丞相が死んでくれて、とにもかくにもめでたい事です。」

 


 

多様化が進む蜀の国(文官)

 

李邈の言い分には、一面の真実がありますし、蜀には密かに諸葛亮の北伐と権力集中を恨んでいる家臣は存在していた事でしょう。しかし、李邈はこれを劉禅が諸葛亮の為に哀悼を表している段階で言ってしまうのです。こんなの、俺を処刑してくれと言っているようなもんじゃないですか…

 

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英雄の死因

 

 

あの劉禅がブチ切れて李邈を投獄し誅殺

ブチ切れる劉禅

 

無能かも知れないけど、温和な事では定評がある劉禅ですが、劉備に父とも頼めと教えられた諸葛亮が死んだ事は心底哀しかったようです。そこに、李邈の無礼な手紙ですから、劉禅は珍しく怒り狂いました。

 

李邈を誅殺投獄する劉禅

 

こうして、劉禅は李邈を逮捕、そして間髪(かんぱつ)を入れずに投獄して誅殺してしまいます。劉備、諸葛亮、劉禅に毒舌を吐き続けた李邈は、こうして生涯を閉じたのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

李邈や李朝、李邵は李の三龍と呼ばれたそうですが、実際には名前が知られていない4人目がいたそうで、裴松之(はいしょうし)は李邈の狂いっぷりは、とても三龍に列する事が出来ないので、三龍から李邈は除外されているに違いないと結論しています。

 

ただ李邈が言った事は一面では真実であり、馬謖の処分にしても後に蔣琬も同じ事を口にしている事を留意する必要があります。つまり李邈はTPOを読んで発言する事が出来ない人であり、その為に破滅してしまったと考えられるのです。

 

参考文献:正史三国志

 

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法正

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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