諸葛亮は蜀の地を治めるに当たり、法を整え、多くの人に公正に接しました。しかし、「法正」)についてはちょっと違う対応をしています。今回の記事では諸葛亮の公正なイメージとは反対な法正への対応について考えてみましょう。
この記事の目次
諸葛亮、蜀を治めるにあたり、法を整える
ついに蜀の地を手に入れた劉備はよく言えば寛容、悪く言えば適当過ぎなところがあり、それによってチャンスを逃したりもしました。
例えば劉表の息子「劉琮」を捕えれば荊州を手に入れられた可能性がありましたし、劉璋と会談した時に殺していれば戦の必要が無かったなどです。
諸葛亮はそんな劉備を引き締めるためか、法を厳しく整備しました。役人の心得として『八務』『七戒』『六恐』『五懼』などを制定し、違反するものは劉備の縁者、諸葛亮の友人であっても容赦なく粛清しました。
あるものが「法の規制を緩めるべきだ。」と進言しますが、「適当に法を運用した劉璋の時代はどうだったかな。」と失敗した劉璋の事をあげ、法を緩めることをしませんでした。
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諸葛亮の厳しさとは?泣いて馬謖を斬る
諸葛亮の公正さを示していたのはやはり有名な「泣いて馬謖を斬る」エピソードでしょうか。
諸葛亮は次世代を担う人材として「馬謖」に大きく期待をしていました。
しかし、彼は戦場で周囲の制止を無視して水源の事を考えずに山頂に布陣してしまい、結果的に大敗してしまいました。
人材が不足していた蜀にとっては馬謖にもう一度チャンスを与えてもいいくらいでしたが、諸葛亮は法に基づいて容赦なく処刑しました。諸葛亮の公正さは誰もが納得する所であり、この処置にも馬謖本人も覚悟していたようです。
ただ、諸葛亮にも「情」はあり、馬謖の葬儀に参列したり、その息子を罪に問うようなことはせず、待遇はそのままでした。
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しかし、法正には・・・
犯罪行為や軍令違反には厳しく対処した諸葛亮でしたが、ある人物に対しては微妙な対処をしています。その相手とは「法正」です。
先ほど諸葛亮に「法を緩めたらどうだ。」といった人物がいた、と述べましたがその人物こそ法正でした。その時は劉璋の例をあげ、納得させましたが法正と諸葛亮の関係は「公正」とは言えなかったようです。
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