この記事の目次
「徳性がない」行いをする法正に対して
「法正」は劉備の入蜀に大きな貢献をした人物で、劉璋に愛想を尽かし、劉備を招き入れた中心人物です。
とても頭が切れる人物で、劉備が蜀を手入れた後も軍事面でも策を講じ、曹操にも関心されるなど多くの貢献をしました。
しかし、彼は正史「三国志」の著者「陳寿」に「徳性(道徳心)について賞賛されない」と言われたほどの人物でした。
法正は些細な恨みにも必ず報復し、自分を非難したものを何人も処刑するなど非道な行いをしていました。
そこである人が法正の横暴を告発したのですが諸葛亮は「今の蜀があるのは法正のおかげである。」と法正に対してはお咎めなしでした。「法に厳しい」と言われた諸葛亮にしては甘すぎる対応です。
関連記事:劉備は曹操と天下を争う気はなかった?陳寿の人物評がなかなか面白い
関連記事:不遇なんてウソ!陳寿の悲劇の歴史家像は捏造だった?
なぜ法正に対しては甘かったのか?
どうして諸葛亮は法正に甘かったのでしょうか。先ずは彼の才能が突出していたこともあったでしょう。
入蜀の戦いで軍師「龐統」を亡くし、頭脳系の人材が不足していました。その為、国を手に入れたばかりのこの頃は法正の不正にも目をつぶったのでしょう。
また、法正は劉璋に降伏の手紙を書けるほどの人物ですから、益州でも相当な力を持っていたと考えられます。当時は益州の人材を配下にしたばかりで、彼らをまとめるには法正の力は不可欠だったのかもしれませんね。
この諸葛亮の気持ちを法正も察していて、好き放題していたのでしょう、確かに「徳性がない」ですね。
関連記事:実際の龐統の容姿ってどんな感じ?イメージはどこから来た?
その後の法正
馬謖は処刑され、同じように戦場でミスをした「李厳」は流刑になりました。
法正が推薦した「彭羕」は横暴なふるまいで投獄され、不平ばかり漏らしていた「廖立」は庶民に落とされました。
しかし、法正はその後も重用され、亡くなったあとは「翼侯」という「諡号」(功績のあった人物に死後贈られる名前)を与えられるほどでした。
関連記事:李厳(りげん)とはどんな人?自分の出世の為に孔明の足を引っ張った蜀の将軍
関連記事:陳到とはどんな人?名声は趙雲に次ぐ?白耳兵を率いた将軍
三国志ライターみうらの独り言
公正さがウリだった諸葛亮でしたが、何故か法正にはすごく甘かったようです。それでも他の人からその態度は批判されず、尊敬されるくらいですから、法正という人物の底知れぬ恐ろしさを感じますね。
関連記事:性格の悪さで名高い?軍師法正の逸話からその性格を分析してみよう!