劉備、激戦の末に入蜀を果たす
劉備軍は比較的優位に戦争を進めますが、「雒城」では頑強に抵抗され、龐統が戦死するなど落城まで1年を要すなど苦戦しました。
その後、順調に攻略は進み、ついに劉璋の首都「成都」に迫るまでに至ります。しかし、成都には蓄えが十分にあり、士気も旺盛でした。また、家臣の中には街を焼き払い、劉備軍の補給を困難にするいわゆる「焦土作戦」を提案する者もいました。
劉備はこれを憂いていましたが、法正は「劉璋にはその作戦を実行する度胸は無いでしょう。」と、劉備を安心させ、自分は劉璋に降伏を勧告する手紙を書いています。その後劉璋は降伏し、劉備の入蜀は完遂します。
これまで見てきたように、劉備の入蜀に際し、法正の功績は大きなものだったと言えるでしょう。
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その後の法正
法正は入蜀での功績が評価され、諸葛亮とともに中央で劉備を助けることになります。
その後、「定軍山の戦い」で魏軍を破るのに大きく貢献するなど、軍事面でも活躍し、曹操に「多くの人材を手に入れたが、なぜ法正を手に入れられなかったのだろう。」と嘆かせるほどでした。
有能な法正でしたが、些細な恨みにも何倍にも報復し、気に入らない者は容赦なく殺してしまうほどの悪い性格でした。これを告発する者もいましたが、法正を評価していた諸葛亮はこれを不問にした、といいます。
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三国志ライターみうらの独り言
法正は劉備に大きな貢献をしました。しかし、劉璋側から見れば「国を売った裏切り者」であり、彼に複雑な思いを持っていた益州人も多かったでしょうね。
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