幕末と言えば欠かせない脇役はやはり蒸気船でしょう。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠われ江戸日本に強烈なインパクトを与えた蒸気船ですが、現在は湖水観光船として僅かに残るだけで、実用としては消滅してしまいました。
では、蒸気船はどのような経緯で誕生し、そして消えていったのでしょうか?
今回は知っているようで知らない蒸気船の歴史を解説します。
元々は鉱山の地下水排出に使われた蒸気機関
蒸気船について説明する前にその動力源、蒸気機関について少し説明しましょう。蒸気機関はイギリスにおいて誕生しましたが、その実用的な使い方は鉱山から出る地下水を効率よく外に排出する機械としてでした。
イギリスにおいてはロビンフッドが登場するような深い森は日本の戦国時代には消滅し、木材はドイツ等の輸入に頼り、日常の燃料として豊富に埋蔵されていた石炭に依存するようになります。
イギリスの石炭は品質がよいのですが、地下深く掘る必要があり湧いてくる地下水の排出が悩みでした。当初は手押しポンプで地下水を排水していましたが、地下10メートルを超えると大気圧によって地下水の排出が出来なくなるのです。
この問題を解消したのが、自身も鉱山技師だったニューコメンでした。彼は10年の試行錯誤の末にニューコメンの蒸気機関と呼ばれる、過熱した蒸気を冷水で冷やした時に発生する負圧を利用した鉱山の地下水排水設備を完成させ特許を取ります。
このニューコメンの蒸気機関こそ実用化された最初の蒸気機関ですが、まだピストンの往復運動に留まり、蒸気船に不可欠な円運動には到っていませんでした。
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ワットが蒸気機関を完成させる
ニューコメンの蒸気機関は大量の石炭を燃やす割に熱効率が悪いもので記録によると1%程度の効率しかありませんでした。簡単に言うと燃費が悪いという事です。
燃費が悪い理由は、シリンダーが直接冷水で冷やされるせいで蒸気が水に戻ってしまい、再び水を蒸気に変えるのに熱エネルギーを消費してしまうからでした。
例えると、湯気を吹きだしているヤカンに水を足すと湯気が出て来なくなり、もう一度、湯気が吹きだすのに余分にガス代が掛るという事に似ています。
ワットはニューコメンの蒸気機関を修理する時に、シリンダーを直接冷やすのではなく、シリンダーの中に弁を作ってコンデンサーに冷えた蒸気を送りこみ水に変える方法を考案しました。こうして、シリンダーを冷やさずに減圧が可能になり燃費が大幅に向上しました。
もうひとつワットは画期的な発明をします。テコの先に遅呈歯車機構とスライダークランクを組み合わせ往復運動を回転運動に転換したのです。
こうして機関車の車輪や歯車、そして蒸気船の回転パドルに転用可能な機械エンジンが人類にもたらされました。ワットの発明は風力や畜力で移動する方法しか持たない人類の生活を大きく変えたのです。
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蒸気船は外輪船として誕生
ワットの蒸気機関は円運動をするので、初期の蒸気船は船の側面や後部に外輪をつけて、パドルで水面を叩いて推進力を得る外輪船となります。ただ、この外輪船方式は波が高いとパドルで効率よく動けないので速度にムラがあり、同時に大量の石炭を船内に積む必要がある事から外洋航海には不向きでした。
一方で湖水では外輪船の弱点がカバーされたので外輪船は最初湖水で実用化されます。しかし、次第に蒸気機関の燃費が向上し、世界中に石炭を供給する港が登場した事で、蒸気船の弱点はカバーされていき、当初は商用船として蒸気船が普及していきました。
19世紀後半は蒸気船の過渡期で、外輪を持ちながら同時にマストも備えている蒸気帆船もあり、ペリーが率いた蒸気船ミシシッピやサスケハナも蒸気帆船です。それまで大まかな到着日時しか分からなかった船舶による移動は蒸気船の登場で日時が正確に計算できるようになり、商業は増々発展していきました。
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軍艦に外輪船が広まらない理由
商船に蒸気船が普及していく一方で、軍艦に蒸気船が登場するのは遅れています。理由は蒸気船外輪が敵の前にむきだしになっていて、パドルが破壊されやすいという点や、外輪にスペースを取り大砲を配備するスペースが制限されるという点がありました。
当時は戦列艦に百門以上の大砲を並べて砲撃するのが主流の時代で、大砲をあまり搭載できない蒸気船は人気が無かったのです。しかし、19世紀も後半を迎えると外輪船の速度を超えるスクリュープロペラの蒸気船が登場し、外輪という弱点も大砲を置くスペースの狭さも解消されたので、次第に軍艦にも蒸気機関が採用されるようになりました。
日露戦争で活躍した戦艦三笠もスクリュー式の蒸気機関であり、この頃、蒸気船は最盛期を迎えます。
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蒸気船が消えていった理由
こうして蒸気船はスクリュー式が主流となり、帆船や外輪船を駆逐し隆盛を極めていきます。ところが工業技術が発展し、船舶が大型化すると蒸気船の致命的な弱点が表面化していきます。
それは蒸気機関が蒸気を蓄える場所として巨大なボイラーを必要とする事でした。船舶が大きくなると船体を動かすために巨大な蒸気圧が必要となりますが、その蒸気を安全に蓄える為に、頑丈で重い巨大なボイラー室が必要だったのです。
しかし、巨大なボイラー室はそれ自体が船の推進エネルギーを奪う荷物であり、またボイラー室はデッドスペースでもありましたし、蒸気は十分に暖まらないと動力を発生しないので始動に時間が掛かる致命的な欠点もありました。
1920年代になると、ボイラーを使用せずシリンダーなどの内部機関においてガソリン等の燃料を燃やして燃焼ガスを発生させ直接に機械に仕事をさせる内燃機関が登場します。外部ボイラーを必要とせずシリンダー内でエネルギーを作れるので内燃機関というわけです。
この方式の内燃機関を原動機と言い、自動車をはじめ飛行機、バイクや発電機など幅広い分野で活用されています。こうして、内燃レシプロエンジンが誕生して船舶に導入されると重く船足が遅い蒸気船は時代遅れになっていき、歴史から姿を消していきました。
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世界史ライターkawausoのまとめ
今回は蒸気船の誕生と消滅について解説してみました。蒸気機関は石炭鉱山の地下水を汲み上げる動力として産声をあげますが、当初は往復運動をするだけで熱効率も悪く、乗り物への転用は難しい状態でした。
しかし、ワットが登場しコンデンサーをつける事でシリンダーの熱効率を維持して燃費を向上させ、同時に歯車とクランクを組み合わせて、テコからの往復運動を回転運動に転換する事に成功し、はじめて蒸気船の動力として利用する事が可能になったのです。
ところが蒸気機関に不可欠のボイラーが船の大型化と共にエネルギーを奪う邪魔な存在になり、やがてボイラーを使わずにシリンダー内で燃焼ガスを使って動力を産む内燃機関が誕生し、蒸気船は急速に廃れていったのです。
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