世界史の授業でお馴染みのアメリカ独立戦争、同時期に起きたフランス革命と並んで旧体制を打ち倒して、新しく国民主権の自由と平等を目指す国を建国したと説明されます。しかし、そもそもの理由としてどうしてアメリカはイギリスから独立したのでしょう?
この記事の目次
放置プレイからアメリカの精神が誕生した
イギリスの植民地であったアメリカ植民州にはフランスやスペインの植民地にはない大きな特徴がありました。それが植民地については積極的な投資をせずに、商売や農業に特許状を出す以外、すべて放置プレイにした事でした。
フランスは植民地に強大な権限を持つ総督を置いて官僚機構を整えると、植民地に名ばかりの自治制度を導入して莫大な投資をし、強権的に現地を支配する事で富を得ていましたが、本国イギリスは投資もせず、関税以外の税を課さずに植民地の自主性に任せます。
イギリス政府がケチなのは、議会が国王の無分別な徴税に振り回された事が原因でした。清教徒革命も名誉革命もつきつめると国王の手当たりしだいの徴税に関する議会の不満が原因だったのです。やっと徴税権を国王から奪い取った後もケチが染みついた議会は健全財政を重視し、見返りがない投資を極端に制限しました。
普通、植民地と言えば宗主国の経済に依存し、卑屈で怠惰で二面性を持つ無気力な国々をイメージしてしまいますが、アメリカ植民地は投資も課税もしないイギリスの放任主義のお陰で強力な独立心を持ち自己責任と自由を愛する人々に育ってしまうのです。
関連記事:欧州諸侯を苦しめたカトリックの教会税
笑っちゃうくらい権力がない総督
18世紀に入ると自由放任主義だったイギリスの支配に変化が生じます。それまでの植民地民の自治を撤回し、特許状を出さないようにして貿易植民地と領主植民地9エリアをイギリスの直接統治下に置いたのです。
そして、各地に国王が任命権を持つ総督(governor)を置いて権力の頂点とし、自治を認めた領主植民地についても領主を国王の認可制として本国の支配下に置きました。総督は植民地住民の選挙で選ばれますが国王の認可制だったわけです。
ところが、こうして設置された植民地総督も見掛け倒しのハリボテでした。ケチな国王は自身が任命した9エリアの総督に給与を支払わなかったのです。総督の給与は植民地議会が支払いましたが、議会はイギリス議会の精神を受け継ぎ、必要最低限の給与しか総督に支払わず、渋々で意図的に遅らせさえしました。
こうして総督は大した役得もなく、町の気の良いそこそこ有能な人物が選ばれる名誉職となり、イギリス国王の権力で植民地民を押さえつける尊大な独裁者には到底、なりえませんでした。
関連記事:スペインが没落した本当の理由が深すぎた!
関連記事:魔女狩りはいつ始まりどうして終結したのか?社会への不満が魔女を産み出した
常に権利の拡張を主張する下院
イギリス国王に任命される総督や評議会が穏健で無力だったのに対し、アメリカ植民州の下院は植民地の市民の代表であり、非常にやかましい存在でした。
植民州の下院は不器用ながらイギリス下院を研究し、議会政治に必要な書籍をどの植民州の議会でも揃え、特に攻撃的だったジェームズ1世やチャールズ1世と下院の激しいやり取りを記録し、イギリスで下院が権限を握ったり大胆な行動を取ると、どこかの議会が決まってそれを引き合いに出すという熱心さです。
国王に批判的なやりとりを見て学習した植民地の下院は、その後イギリスが植民地に課税しようとした時に、最も激烈に抵抗する組織になりました。
関連記事:斬首刑と楽しむ至極のフレンチ!フランス革命とフランス料理の意外な関係
関連記事:スペインが没落した本当の理由が深すぎた!
世界で初めて成文法の憲法を持つ
アメリカの下院はイギリス議会と異なり、成文憲法を初期の段階から保有していました。特にコネチカット基本法は1639年に制定されアメリカのみならず世界最古の成文法です。
憲法を持った事はアメリカ人とイギリス人の性質を大きく変えました。イギリス人が伝統主義や経験主義で日々の延長で物事を考えていた頃、アメリカ人は権利や自然法、普遍的で絶対的基準で物事を考えるようになりました。
憲法を持ったアメリカ人は、今日だけではなく明日の自分達、将来やってくる身分制の不条理から人間の権利を守る為、人権を保障し拡充する事を考えるようになります。それは、やがてイギリスの植民地としての立場を否定し、自由と平等と民主主義を国是とするアメリカ合衆国の建国へ繋がっていきました。
関連記事:オウ・ノー!南北戦争の勝敗は塩が決め手!
イギリスと政治が同期した幸運
アメリカ植民州の議会は、イギリス議会を模倣したので、イギリスの下院が手に入れた権利は当然のようにアメリカの下院も主張します。17世紀から18世紀にかけ、他国では王権が拡大して絶対王政が敷かれますが、同時期のイギリスでは清教徒革命、名誉革命と国王が議会と対立して敗れ去る事件が相次ぎました。
イギリスの歴代国王はこの時に手放した王権を二度と回復できず、絶対君主ではなく、憲法の制約を受ける立憲君主となります。アメリカでも、この頃、総督と評議会の力を下院が完全に圧倒し、イギリス国王の直接統治を受けつつも逆に勢力を伸ばし、総督を含む全ての公務員の給与と諸経費を議会の統制下に置く事に成功しました。
そして、イギリス議会とは逆に、アメリカの下院は数々の行政権をコントロールし、自らが政府であると考えるようになったのです。
関連記事:アメリカ独立の父 ベンジャミン・フランクリンは華麗なるペテン師だった
関連記事:ペリーは蒸気船の父!アメリカ海軍近代化プロジェクトX
【次のページに続きます】