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無税状態が独立の機運を育む
アメリカ植民州は、イギリスが国費を投下せずに開拓者の才覚で開かれた土地なので、課税がとても小さく、1760年頃まで人々は無税に近い状態で裕福な暮らしが出来ました。
こうして誕生した分厚い中産階級は日々の労働を黒人奴隷にさせる事で余暇を生み出し、多くの出版物を読んで高い教養と政治に対する知識を身につけ、植民地やイギリス本国の政治について議論を戦わせる機会も多くなります。
やがて富裕層は、選挙で選ばれ地方政治家としてキャリアを積み上げて庶民の支持を集めて、総督や評議会に対しても影響力を行使するようになりました。これらの人々は下院に絶えず人材を供給する土台となり、イギリス本国に盲従しているだけの総督や評議会の勢力を次第に圧倒していくのです。
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イギリスの課税に対する不満爆発
イギリス支配に不満を持ちながらも、長年の慣習に従っていたアメリカ植民州の人々の怒りが爆発したのは、イギリスがフランスとの七年戦争やフレンチ・インディアン戦争で多額の戦費を費やし、アメリカへの課税を強化したのが発端でした。
課税額はイギリス本国と同等でしたが、それまで関税以外の税金を取られていないアメリカ人にとって自分達が稼いだ富を何の投資もしていないイギリス本国に持ち去られるのは屈辱だったのです。
それでもアメリカから代表を派遣し議論した上での敗北なら仕方ないですが、イギリス政府は、アメリカ議会から代表を送り込む事さえ許可しませんでした。怒った植民地議会は「代表なくして課税せず」を採択し課税を拒否します。
特に、紅茶の独占販売権を本国がイギリス東インド会社に認めた事は、紅茶の密輸で経営が成り立っていたアメリカ商人を激怒させ、ボストン港に碇泊していた東インド会社の貿易船を襲撃し茶箱を海中に投棄させるボストン茶会事件に繋がりました。
イギリスは事件に対しボストン港を封鎖する強硬措置を取り、1775年には植民地民兵とイギリス軍の武力衝突に発展。翌年には植民地13州の代表が集まり、アメリカ道立宣言を採択し、独立戦争の火ぶたが切って落とされます。
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先住民問題に対するイギリスへの失望
もう1つ、アメリカ人を激怒させたのは、イギリス国王が先住民の肩を持って広大な先住民居留地を設定し植民地人の開拓活動を規制するような政策を打ち出した事でした。
植民地政府は先住民の権利をさらに認めるなら、経済活動に深刻な影響が出ると考え、問題に鈍感なイギリス本国にこれ以上従えないと命令を無視したのです。こうして先住民による植民地人に対する襲撃や植民地人による先住民襲撃が繰り返されました。
実際イギリス本国が先住民に寛容だったかというと微妙で、ほとんどのイギリス人はエスキモーとネイティブアメリカンの区別もつきませんでした。つまりアメリカ植民地人は、現実を知らないで理想論を振りかざすイギリスに愛想が尽きたのです。
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世界史ライターkawausoの独り言
アメリカ植民州では、ケチなイギリス本国が投資をしなかったために、民間の自治が浸透し開拓者精神で富を生み出す独立心が培われました。そして、1760年頃まで関税以外は無税の状態が続いた事で、ぶ厚い中産階級が誕生し、高い教養を持ち政治について高い関心を持つ人々が誕生します。
そしてイギリスが七年戦争の戦費の赤字を埋める為に植民地に課税した事と、先住民に広大な居留地を約束した事で経済発展を阻害されたと考えた植民地人は対英感情を悪化させて、主要な貿易港であるボストンの閉鎖で武力衝突が起き、独立戦争に繋がったのです。
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