悠久の歴史が紡がれる交易路、シルクロード。中国の長安から中央アジアを通じ、地中海に至るこの道は、長く複雑な歴史を辿ってきました。
そこで今回は、そんなシルクロードが開かれるきっかけとなった男、張騫の大冒険について見ていきたいと思います。
この記事の目次
張騫(ちょうけん)とはどんな人物?
張騫は前漢時代の人物であり、漢王朝の始まりの地である漢中郡出身の人物でした。彼の生年は不明ですが、武帝(在位紀元前141年〜紀元前87年)の時代に活躍した人物です。
紀元前141年に即位した武帝は血気盛んな人物であり、漢王朝の北にあるモンゴル高原に位置する遊牧民・匈奴を征伐しようと考えていました。
しかし、匈奴の武力は強大であり、漢王朝をうちたてた劉邦ですら匈奴の前には惨敗を喫しているほどでした。そこで、武帝は漢からみて遥か西方の大月氏という国と同盟を結び、匈奴を挟み撃ちにする戦略を立てます。
大月氏は当時、中央アジアを支配していましたが、元々大月氏は月氏と呼ばれて匈奴と争っていた国で、匈奴に敗れて故郷を追われ、中央アジアに移住したという経緯があります。そこで、武帝は匈奴を恨んでいるはずの大月氏との同盟を画策したというわけです。その際、大月氏との同盟の使者として派遣されたのが張騫だったのです。
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張騫の大冒険:匈奴による抑留
武帝の命令を受け、大月氏への使者となった張騫ですが、大月氏への道のりは困難を極めていました。当時、漢の領土の西端は隴西郡(現在の甘粛省)までであり、そこから先の「西域」と呼ばれる地域は未知の土地でした。
というのも、当時の西域は敵国である匈奴の支配下であり、西域を横断して大月氏を目指す張騫の冒険は、敵地を横断するという危険極まりないものだったのです。はたして、張騫は西域に入るとすぐに匈奴に捕まります。
匈奴は武帝の思惑を見抜いており、張騫を大月氏へと行かせまいと抑留してしまいます。こうして張騫は十数年にわたって匈奴の捕虜としての生活を余儀なくされます。しかし、捕虜としての張騫の生活は苦しいものではなく、単于(匈奴の族長)は勇敢な張騫を気に入り、張騫は匈奴に抑留されたまま結婚し、子供を儲けています。
しかし、張騫は武帝への忠誠と自らの任務を忘れてはいませんでした。張騫は監視が緩んだ一瞬の隙をついて脱走し、大月氏へと向かいます。
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張騫の大冒険:張騫の西域行
匈奴の下から脱走した張騫は懸命に逃げ、ついには追っ手を振り切って大宛(現在のウズベキスタンの都市・フェルガナ)に辿り着きます。そこで、張騫は伝説的な「汗血馬」と出会います。
「汗血馬」は「血のような汗を流し、一日千里を走る」という駿馬であり、張騫がこの「汗血馬」と出会ったことが後にシルクロードが開かれるきっかけの一つとなりました。
その後、大宛を経て張騫はついに大月氏へとたどり着きます。大月氏の王に謁見した張騫は同盟締結を提案しますが、既に匈奴に故郷を追われたのも遥か昔であり、現在の生活に満足していた大月氏は匈奴への恨みを忘れており、同盟はあえなく拒絶されてしまいます。失意に沈む張騫でしたが、今度は同盟失敗を武帝に復命すべく、漢への帰還を図ります。
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張騫の帰還と「汗血馬」
かくして張騫は帰路を急ぎますが、またしても西域を横断していたさなかに匈奴に囚われます。しかし今度は、匈奴の内紛が勃発した隙に乗じて監視を振り切り、匈奴の地に残した妻子を連れ、何とか漢の都・長安に帰還します。
この時、すでに出発から十数年が経っており、出発時には100人余りいた使者も2人になっていたと言われています。こうして武帝に同盟失敗を復命した張騫でしたが、張騫が十数年の間に見聞きした西域の情報は漢にとって貴重な情報であり、武帝は張騫の報せた情報をもとに、西域への勢力拡大を図るようになります。
特に、武帝の興味を引いたのは「汗血馬」でした。遊牧騎馬民族である匈奴の騎兵に苦しめられていた漢の武帝としては、優秀な馬は喉から手が出るほど欲しい存在です。そんな武帝は、「血のような汗を流し、一日千里を走る」という「汗血馬」は何が何でも手に入れたいと渇望するようになります。
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