「典韋」と言えば、曹操のすぐ近くで仕え、いわばボディーガードのような役割で知られていますね。そんな典韋を曹操に推薦したのは実は「夏侯惇」だったというのです。
今回の記事ではそんな典韋の経歴と夏侯惇との関係について探ってみましょう。
この記事の目次
かなりの荒くれ者だった典韋
典韋は陳留郡己吾県の出身です。若いころから仁義を重んじる人物として知られ、友人のために彼の仇の屋敷に乗り込み、その報復として仇を殺し、その妻まで殺害しています。
この時、仇の仲間に襲われますが、それを切り抜け、一躍有名になったそうです。今でこそ犯罪的な行為ですが、当時では武勇伝として語られていたのでしょう。
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夏侯惇に見いだされる典韋
その後、典韋は当時挙兵して勢いがあった「張邈」の部下に兵士として仕えることになりました。典韋がそこで名を挙げた出来事がありました。張邈陣営の「牙門の旗」(大将の旗)はとても重い物で誰も持ち上げることができませんでした。
しかし、怪力でも自慢だった典韋はそれを片手で持ち上げ、皆が人目置くようになったそうです。その後、張邈と曹操は争いになりますが、その中で典韋は夏侯惇に見いだされその配下になったのです。
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夏侯惇の下で奮戦し、曹操に認められる典韋
典韋の武名を高めたのは呂布との戦いのときです。呂布軍が猛攻してくる中、典韋は数十人の決死隊を率います。そこで典韋は武器を手に降りしきる矢の中で呂布軍を食い止めることに成功します。
この奮戦が認められ、典韋は曹操直属の都尉(近衛騎兵隊長)に任じられます。彼は日中は曹操のそばで目を光らせ、夜は自分の寝床に帰ることなく曹操を護衛していました。また、典韋が率いた親衛隊はとても勇猛で、様々な戦で先陣をきり、なおかつ敵陣を陥落させていたといいます。
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典韋、最後の奮戦
典韋が曹操の護衛を担当して4年、一度は降伏した「張繡」が反乱を起こします。張邈は曹操の隙をつき、その陣営を急襲し、曹操はかろうじて脱出します。典韋は曹操を逃がした後、陣営の門で奮戦し、敵を近づけることはありませんでした。やむを得ず張邈軍は他の門に迫りますが、そこでも典韋が立ちはだかります。
典韋の部下は残り少なくなってしまったのですが、彼らはいずれも一人が敵十人を相手にするなど奮闘します。典韋は「戟」を振るい敵を次々と倒していきますが、体には多数の傷を負っていました。そのうち戟も失い、典韋は肉弾戦で敵に挑み、組み付いてきた敵を絞め殺すなど、敵陣営を恐怖に陥れたといいます。
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典韋、壮烈な最期
典韋は全身に傷を負い、もはや戦える状態ではありませんでしたが目を怒らせ、敵兵を罵倒しながら倒れてしまいます。敵は恐る恐る典韋に近づき、その死を確認して首をはね、その首を次々に手渡して見世物にした、と言います。
正史「三国志」は全体的に淡々とした口調ですが、この「典韋の死」の場面はとても感情的に書かれており、迫力があります。曹操は典韋の死を悲しみ、告別式でも涙を流し、典韋の子「典満」を優遇しました。曹操は、典韋が死んだ場所を通るたびに彼を思い出したといいます。
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