曹操のボディーガード「典韋」を推薦したのは夏侯惇だった?

2022年1月18日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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曹操を守るボディーガード典韋

 

「典韋(てんい)」と言えば、曹操(そうそう)のすぐ近くで仕え、いわばボディーガードのような役割で知られていますね。そんな典韋を曹操に推薦したのは実は「夏侯惇(かこうとん)」だったというのです。

 

今回の記事ではそんな典韋の経歴と夏侯惇との関係について探ってみましょう。

 

 

かなりの荒くれ者だった典韋

悪来と呼ばれた典韋

 

典韋は陳留郡己吾県(ちんりゅうぐんきごけん)の出身です。若いころから仁義を重んじる人物として知られ、友人のために彼の仇の屋敷に乗り込み、その報復として仇を殺し、その妻まで殺害しています。

 

典韋にボコボコにされる成廉

 

この時、仇の仲間に襲われますが、それを切り抜け、一躍有名になったそうです。今でこそ犯罪的な行為ですが、当時では武勇伝として語られていたのでしょう。

 

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魏のマイナー武将列伝

 

 

 

夏侯惇に見いだされる典韋

 

その後、典韋は当時挙兵して勢いがあった「張邈(ちょうばく)」の部下に兵士として仕えることになりました。典韋がそこで名を挙げた出来事がありました。張邈陣営の「牙門(がもん)の旗」(大将の旗)はとても重い物で誰も持ち上げることができませんでした。

 

しかし、怪力でも自慢だった典韋はそれを片手で持ち上げ、皆が人目置くようになったそうです。その後、張邈と曹操は争いになりますが、その中で典韋は夏侯惇に見いだされその配下になったのです。

 

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夏侯惇の下で奮戦し、曹操に認められる典韋

方天画戟を持つ呂布

 

典韋の武名を高めたのは呂布(りょふ)との戦いのときです。呂布軍が猛攻してくる中、典韋は数十人の決死隊を率います。そこで典韋は武器を手に降りしきる矢の中で呂布軍を食い止めることに成功します。

 

曹操

 

この奮戦が認められ、典韋は曹操直属の都尉(とい)(近衛騎兵隊長)に任じられます。彼は日中は曹操のそばで目を光らせ、夜は自分の寝床に帰ることなく曹操を護衛していました。また、典韋が率いた親衛隊はとても勇猛で、様々な戦で先陣をきり、なおかつ敵陣を陥落させていたといいます。

 

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呂布

 

 

典韋、最後の奮戦

 

典韋が曹操の護衛を担当して4年、一度は降伏した「張繡(ちょうしゅう)」が反乱を起こします。張邈は曹操の隙をつき、その陣営を急襲し、曹操はかろうじて脱出します。典韋は曹操を逃がした後、陣営の門で奮戦し、敵を近づけることはありませんでした。やむを得ず張邈軍は他の門に迫りますが、そこでも典韋が立ちはだかります。

 

典韋の部下は残り少なくなってしまったのですが、彼らはいずれも一人が敵十人を相手にするなど奮闘します。典韋は「戟(げき)」を振るい敵を次々と倒していきますが、体には多数の傷を負っていました。そのうち戟も失い、典韋は肉弾戦で敵に挑み、組み付いてきた敵を絞め殺すなど、敵陣営を恐怖に陥れたといいます。

 

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ぐっすり眠れる!ながら三国志

 

 

典韋、壮烈な最期

絶命する典韋

 

典韋は全身に傷を負い、もはや戦える状態ではありませんでしたが目を怒らせ、敵兵を罵倒しながら倒れてしまいます。敵は恐る恐る典韋に近づき、その死を確認して首をはね、その首を次々に手渡して見世物にした、と言います。

 

正史三国志_書類

 

正史「三国志」は全体的に淡々とした口調ですが、この「典韋の死」の場面はとても感情的に書かれており、迫力があります。曹操は典韋の死を悲しみ、告別式でも涙を流し、典韋の子「典満(てんまん)」を優遇しました。曹操は、典韋が死んだ場所を通るたびに彼を思い出したといいます。

 

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英雄の死因

息子の「典満」とは?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

武勇で知られた典韋でしたが、その息子「典満」はどのような人物だったのでしょうか。典満の生まれた年はわかりませんが、典韋がなくなったときはまだかなり若かった(もしくは幼かった)と考えられます。

 

父の死後は曹操に「郎中」(護衛)に任じられ、曹操の近くで仕えます。その後は「司馬」(祭祀や軍事を担当)になっています。

 

皇帝に就任した曹丕

 

曹操の死後は曹丕(そうひ)によって「都尉」に昇進していることから、無能な2世ではないかもしれません。ただ、かれの業績はつたわっていません。

 

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夏侯惇

 

 

 

多くの武将を見出した夏侯惇

韓浩(かんこう)は曹操が手元に置いておきたかった男

 

典韋を見出した夏侯惇ですが、ほかにも有能な人物を登用しています。代表的な人物には「韓浩(かんこう)」がいます。

 

夏侯惇に見出され曹操に仕えた韓浩

 

彼は曹操に屯田を提唱するなどの内政面、張魯(ちょうろ)との戦いなどの軍事でも活躍しました。夏侯惇は気難しい「田疇(でんちゅう)」とも友人だったと伝わっており、幅広い人脈を持っていた武将なのでしょう。

 

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曹操孟徳

 

 

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

正史「三国志」での典韋の活躍は鬼気迫るもので、よほど当時の世の中に浸透していた出来事だったことがうかがえますね。死に際に名を高めたことは武将としてはかなり光栄だったのではないでしょうか。

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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