英雄は生まれた瞬間から英雄だった訳ではありません。誰しも生まれた瞬間は赤ん坊であり、子供時代を経て、成長していくのです。もちろんそれは三国志の英雄の一角、劉備とて同じ事。
今回はそんな劉備の学生時代の一幕をちょっとだけご紹介したいと思います。
この記事の目次
劉備「大きくなったら」
まずはちょっとだけ、学生時代よりも前の幼き劉少年のお話を一つ。ある日、劉少年は家の前に生えている大きな桑の木を見て言いました。「大きくなったら天子様の乗っている馬車に乗るんだぁ」天子様とは君子、つまり皇帝のこと。
これを聞いた叔父さんはびっくりして劉少年の口を塞ぎ「滅多なことを言うな!そんなことを言うだけで我が一族は皆殺しになるぞ!」と叱ったそうです。
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劉少年の発言について
これをちょっと解説すると、まず桑の木は中国では神聖な木とされ、男の子が生まれると家の周囲に植えたり、守り木のように扱われていました。このためか、皇帝の馬車は桑の木でできていたのです。
また発言についてですが、不敬さは置いておくとしても嘗ての高祖・劉邦が始皇帝を見て「男子たるものああならなくてはならないな」と言ったものにどこか近しいものを感じますね。
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学生時代の始まり
劉備の父親は劉備が幼い頃に亡くなっており、劉備は生活が困窮する中で母親と二人、筵を売って生活していたと言います。しかし生活が苦しい中でも母親は劉備にしっかりとした教育を施そうとしたのか、175年、劉備が15歳の頃に従叔父の援助を受けて劉備は学問を学ぶように向かわされました。これが劉備の学生時代時代の始まりです。
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劉備の師・盧植
この劉備の先生こそ、かの有名な盧植です。盧植は若い頃から学問を治め、博学なだけでなく節度も守り、声もとても良い(ちょっと意訳)人物でした。
盧植は劉備が学問を学び始めた175年に文武の才能がある人物として推薦を受け、九江太守に任命されていました。ここで反乱を起こした蛮族を降伏させ、病のため職を辞して故郷に帰り、塾を開いて近隣の子供たちに学問を教える先生となったのです。
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劉備の学生時代とは?
これだけ見ると「そんな凄い人の下で勉強していたなんて!」とインテリボーイ劉備を思い浮かべますが、実はこの劉備の学生時代、しっかりと勉強していたかどうかは多少疑問が残ります。
というのも、まずはこの盧植先生、この後すぐ請われて復職しています。またそもそも太守を一度辞職したのも病気だったので、この頃はそこまで教え子たちに直接指導する時間は取れなかったのではないか?という疑問も。
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