劉備が天下統一できなかった3つの理由

2021年10月19日


 

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漢中王になる劉備

 

小説「三国志演義」では実質的主人公とされ、史実でも貧しい出身から王朝まで建てた劉備(りゅうび)。しかし、結局は天下統一をすることはかないませんでした。それはどのような事が原因だったのでしょうか?

 

悪役の曹操、正義の味方の劉備

 

今回の記事では筆者が考えた、その理由を3つを曹操(そうそう)の「」と比較しつつ、上げてみようと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1.出自の違いによるスタートダッシュ遅さ

土いじりをする劉備

 

劉備は一応漢の王族の子孫という事にはなっていましたが、実際は父を早くに亡くし、貧しい生活をしていました。

 

劉備

 

なかなか出世の機会に恵まれませんでしたが、「黄巾(こうきん)の乱」のおりに義勇軍を結成し、戦功をあげたことにより、ようやく役人として登用されます。

 

劉備の黒歴史

 

しかし他の役人の態度が気に入らず、折角の官職を捨ててしまい、以後は様々な組織に所属しながら戦い続けます。

 

若い頃の曹操

 

一方ライバルの曹操は大金持ちの家に生まれ、20歳で役人に推挙されました。黄巾の乱で活躍し、とんとん拍子に朝廷で出世していくことになります。

 

曹操

 

以後は一時停滞することもあったものの、常に中央の一線で活躍し、朝廷の最高位「丞相」になったのは208年です。

 

諸葛亮孔明の天下三分の計に感化される劉備

 

このとき劉備は諸葛亮(しょかつりょう)を迎えたばかりでまだ大きな領土は持っていませんでした。曹操という実力者に迫るには劉備の勢力拡大の遅さは厳しいものがあったのかもしれません。

 

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2.益州の国力では敵わない

三国志の武器 雲梯車 劉備

 

苦労して益州(えきしゅう)を手に入れ、「魏呉蜀」の三国を鼎立させた劉備ですが、どうしても国力に大きな差がありました。三国鼎立時点で魏が支配下に置いていた「州」は11州、呉は4州、蜀に至ってはわずか益州のみ1州にすぎませんでした。

 

献帝を保護する曹操

 

しかも魏は当時の先進地である黄河流域の諸州を確保し、皇帝をも支配下に置いていました。一方益州は「豊かな土地」と言われていたものの、山間地の盆地で魏の「中原」の広大な平野には生産力でとてもかないませんでした。

 

北伐を結構する孔明

 

諸葛亮はそんな中でも殖産興業、兵員確保を行い、北伐も行いました。それでも蜀が破たんしなかったのはすごいことですが、結局は魏を脅かすところまでは至りませんでした。

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

3.劉備の「情」が邪魔をした〜例1、何度か雄飛の機会を逃す

呂布を受け入れる劉備

 

劉備は「情」の人と言われ、その人柄が愛されていました。しかし、その情が天下統一をするには邪魔をしたのかも知れません。

 

食客に成り下がる劉備

 

あるとき、劉備は劉表(りゅうひょう)の元に身を寄せていました。しかし劉表は亡くなり、後を継いだ劉琮(りゅうそう)はあっけなく曹操に降伏してしまいます。

 

舌戦で煽るのがうまい諸葛亮孔明

 

この時諸葛亮は「劉を討って、そのままその領土(荊州(けいしゅう))を手に入れてしまいなさい。」とアドバイスしましたが、劉備は劉表に対する恩からかそれを拒否し、逃亡してしまいます。

 

曹操から逃げ回る劉備

 

その時多数の領民も付いてきたのですが、その民を捨てて素早く行軍すれば土地を手にすることもできたはずですが、劉備は民を捨てることを拒み、進軍は遅れ、曹操軍と戦う事になります。

 

宴会をして劉備をもてなす劉璋

 

また、益州を手に入れる計画中、益州の主「劉璋(りゅう しょう
)
」と宴会をする機会がありました。

 

龐統

 

そのとき配下の「龐統(ほうとう」は「この機会に劉璋を捕え、そのまま領土(益州)を手に入れてしまいなさい。」とアドバイスしますが劉備は「まだ信義を示していない」と拒否。

 

流れ矢にあたる龐統

 

益州を早く手に入れるチャンスを失い、のちの戦いで有能な軍師の龐統も死なせてしまいます。

 

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劉備の「情」が邪魔をした〜例2「夷陵の戦い」

劉備とともに呉を攻めまくる馮習

 

劉備の情が国を傾かせてしまったのが「夷陵(いりょう)の戦い」です。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

荊州の守りを任せていた義兄弟の「関羽(かんう)」が呉に討たれてしまいます。

 

朝まで三国志 劉備

 

劉備は激しく嘆き悲しみ、呉への復讐戦を計画します。学識で有名な「秦宓(しんひつ)」はこの戦に対して「まだその時期ではありません、必ず失敗します。」と劉備に言いましたが、劉備は怒り、秦宓は投獄されてしまいます。

 

諸葛瑾

 

呉でも諸葛亮の兄「諸葛僅(しょかつきん)」が「劉備様のお気持ちはわかります。しかし、今は蜀と呉が手を取りあい、魏と対抗するべきではありませんか。」と書簡を送りますが、劉備の決意は固く、ついに出兵します。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

緒戦こそ勝利しますが、呉の名将「陸遜(りくそん)」の前に蜀軍は大敗。「馬良(ばりょう)」が戦死するなど、多数の有能な人材を失ってしまい、劉備も帰国後に亡くなってしまいます。この戦いが無ければ、もしかしたらまだ天下統一のチャンスはあったかもしれません。

 

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夷陵の戦い

 

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

蜀は圧倒的差がありながら魏に立ち向かいました。それが今の我々の心を打つのかもしれません。また、劉備自身の決断は蜀の発展を遅らせた面もあるかもしれませんが、劉備の人間性はとても憎めませんね。

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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