晩年の呉と言えば呂壱事件と二宮の変という二大悲劇が孫呉を襲ったことは記憶に新しいでしょう(きっと)。この呂壱事件と二宮の変には多くの呉の武将たちが巻き込まれることになるのですが、
今回はそんな巻き込まれた人物たちの中から、朱拠をご紹介します。同時にそんな彼が見抜けなかったとある人物にもちょっと触れてみますね。
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弁舌に優れていた朱拠
朱拠、字は子範といいます。苗字から察する人も多いかと思いますが、呉の猛将、朱桓は彼とは従兄弟に当たります。朱桓自身も中々の人物ではありますが、それは別の項で。
さて朱拠は若い頃から風格がある人物であり、弁才に長けているという人物でもありました。その一方で他者の才能を見抜き、そしてその才能を重要視するべきだと考えている人物であったようです。
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孫権の娘を娶り大抜擢される朱拠
当時、孫権は悩んでいました。嘗ては呂蒙が都督を行い、大変な中でも多くの武将たちが頑張っていた……それなのに今の呉はどうか、皆たるんでいるのではないか?
そんな既にちょっと老害のようなことを考えている孫権でしたが、そこで新たに抜擢されたのが朱拠です。孫権は娘の孫魯育を朱拠の妻とさせ、朱拠は左将軍、雲陽侯とさせました。なおこの後に呂壱事件が起こって朱拠もちょっと被害を受けます。
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二宮の変で呉に崩壊の兆しが
その後、246年に朱拠は驃騎将軍となり、三年後には丞相代行となります。察しの良い人ならもうお気付きでしょう。そう、この頃の呉は後に二宮の変と呼ばれる、孫権の後継者争いで大変なことになっています。
元々、皇太子には長男である孫登が付いていました。しかしこの孫登が病死してしまったために、三男の孫和が立太子されていたのです。ですが孫権は皇太子の孫和と、魯王に封じた孫覇の待遇を変えませんでした。
このために家臣たちに派閥が生まれ、二宮の変に繋がります。因みに朱拠は皇太子の孫和派でした。
もうちょっと因むと段々孫権は後継者争いに嫌気がさして末っ子の孫亮を可愛がるようになります。
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孫権を諫めて激怒され左遷される
250年、孫権は皇太子であった孫和を廃太子しました。その一方で孫覇を自害させ、皇太子には可愛がっていた孫亮を立てたのです。派閥争いをしていた家臣たちからすればとんでもないオチを付けてくれたと言った所でしょうか。しかもこの際、廃太子された孫和は幽閉されたとも言われ、これに憤った朱拠は自らの顔に泥を塗り、自分を縛らせ孫権に訴えました。
ですがこの朱拠の振る舞いは孫権の逆鱗に触れ、朱拠は棒打ちの刑にされた上に左遷されることになりました。
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孫弘が孫権に悪口を吹きこみ処刑される
この際に、孫覇派に取り入っていた孫弘が動きます。彼は病気で寝込んでいた孫権にしきりに朱拠は悪人であると訴え、その挙句に孫権が動けないのを良いことに詔を偽造。孫権の命令として朱拠は左遷前に自害を命じられ、朱拠はそのままこの世を去ります。
孫権に見出され抜擢され、にも関わらず朱拠は死を賜る結果となったのです。
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