
晩年の呉と言えば呂壱事件と二宮の変という二大悲劇が孫呉を襲ったことは記憶に新しいでしょう(きっと)。この呂壱事件と二宮の変には多くの呉の武将たちが巻き込まれることになるのですが、
今回はそんな巻き込まれた人物たちの中から、朱拠をご紹介します。同時にそんな彼が見抜けなかったとある人物にもちょっと触れてみますね。
この記事の目次
弁舌に優れていた朱拠
朱拠、字は子範といいます。苗字から察する人も多いかと思いますが、呉の猛将、朱桓は彼とは従兄弟に当たります。朱桓自身も中々の人物ではありますが、それは別の項で。
さて朱拠は若い頃から風格がある人物であり、弁才に長けているという人物でもありました。その一方で他者の才能を見抜き、そしてその才能を重要視するべきだと考えている人物であったようです。
関連記事:朱拠を一族と取り替えたら二宮の変を回避できるか?「三国志とりかへばや物語」
関連記事:142話:孫権二宮の変を招き、陸遜憂国の念を抱き憤死する【全訳三国志演義】
孫権の娘を娶り大抜擢される朱拠
当時、孫権は悩んでいました。嘗ては呂蒙が都督を行い、大変な中でも多くの武将たちが頑張っていた……それなのに今の呉はどうか、皆たるんでいるのではないか?
そんな既にちょっと老害のようなことを考えている孫権でしたが、そこで新たに抜擢されたのが朱拠です。孫権は娘の孫魯育を朱拠の妻とさせ、朱拠は左将軍、雲陽侯とさせました。なおこの後に呂壱事件が起こって朱拠もちょっと被害を受けます。
関連記事:呂壱事件の主犯、呂壱(呂壹)とはどんな人物?晩年・孫権の黒歴史を招いた呉の佞臣
二宮の変で呉に崩壊の兆しが
その後、246年に朱拠は驃騎将軍となり、三年後には丞相代行となります。察しの良い人ならもうお気付きでしょう。そう、この頃の呉は後に二宮の変と呼ばれる、孫権の後継者争いで大変なことになっています。
元々、皇太子には長男である孫登が付いていました。しかしこの孫登が病死してしまったために、三男の孫和が立太子されていたのです。ですが孫権は皇太子の孫和と、魯王に封じた孫覇の待遇を変えませんでした。
このために家臣たちに派閥が生まれ、二宮の変に繋がります。因みに朱拠は皇太子の孫和派でした。
もうちょっと因むと段々孫権は後継者争いに嫌気がさして末っ子の孫亮を可愛がるようになります。
関連記事:全琮はどんな人?人生の前半と後半で性格激変!二宮の変に暗躍した闇将軍
関連記事:自分が元凶だと忘れる孫権の最高峰大失敗「二宮の変」わかりやすく解説
孫権を諫めて激怒され左遷される
250年、孫権は皇太子であった孫和を廃太子しました。その一方で孫覇を自害させ、皇太子には可愛がっていた孫亮を立てたのです。派閥争いをしていた家臣たちからすればとんでもないオチを付けてくれたと言った所でしょうか。しかもこの際、廃太子された孫和は幽閉されたとも言われ、これに憤った朱拠は自らの顔に泥を塗り、自分を縛らせ孫権に訴えました。
ですがこの朱拠の振る舞いは孫権の逆鱗に触れ、朱拠は棒打ちの刑にされた上に左遷されることになりました。
関連記事:孫和とはどんな人?文武両道だけど最後はとっても悲惨な貴公子
関連記事:孫覇とはどんな人?側近に煽られて孫家を分裂させてしまった残念貴公子
孫弘が孫権に悪口を吹きこみ処刑される
この際に、孫覇派に取り入っていた孫弘が動きます。彼は病気で寝込んでいた孫権にしきりに朱拠は悪人であると訴え、その挙句に孫権が動けないのを良いことに詔を偽造。孫権の命令として朱拠は左遷前に自害を命じられ、朱拠はそのままこの世を去ります。
孫権に見出され抜擢され、にも関わらず朱拠は死を賜る結果となったのです。
関連記事:144話:諸葛恪東興の役で魏の大軍を撃破す【全訳三国志演義】
関連記事:孫権没後の呉の政界は彼に振り回された!親を悩ませた諸葛恪とは何者だ?
孫魯育も処刑された
さて朱拠に嫁いだ孫魯育、孫夫人ですが、彼女も報われません。夫が自害させられた挙句に、後に彼との子供たちと共に処刑されたのです。かつての皇太子、孫登の子が孫峻にクーデターを起こした際に、彼女の実姉である孫魯斑によって讒言されて首謀者の一味とされたからです。
この一件でなぜ実の姉が妹を陥れたのかは、二宮の変において孫魯斑は孫覇派であり、朱拠が孫和派に属したことから恨みに思っていたのではないか……と言われていますが、真相ははっきりしません。ともあれ、二宮の変が多くの人々の運命を変えてしまったのは間違いないでしょう。
関連記事:孫皓の皇后、滕夫人とはどんな人?暴君孫晧に廃后されなかった理由とは?
魏のスパイ隠蕃を見抜けなかった朱拠
最後に、朱拠の慧眼ついて。朱拠は朱桓の子の朱異の才能を見抜くなど人物を見抜く才に長けていたと言われています。が、とある人物を見抜くことができなかったこともありました。それは隠蕃という、魏国から送られてきたスパイのことです。
隠蕃は優秀な人物として様々な人々が彼と交流を持とうとし、朱拠はこの隠蕃を素晴らしい人物と褒め称えていました。しかし後に発覚、処刑。孫権はこの件で朱拠を禁錮処分として長い間謁見禁止としたそうです。もしかしたらこの時から、既に朱拠と孫権の間には溝があったのかもしれませんね。
関連記事:蜀のブサメン軍師、龐統は魯粛のスパイだった?劉備と龐統、仮面主従の真実
三国志ライター センのひとりごと
朱拠は朱一族と言うべきか、それとも呉の家臣と言うべきか、相手が孫権であっても臆せず自分の意見を貫く一人です。しかし、このために孫権の怒りを買った一人でもあります。晩年の孫権からすれば、そういった家臣の態度に長年の不満が一気に噴出したのかもしれませんね。
ともあれ朱拠、二宮の変での被害者の会の一人でした。
ちゃぽん。
参考文献:呉書朱拠伝 胡綜伝 孫和伝
関連記事:とっても地味な孫権の息子達7名を一挙紹介

























