今回はタイトル通りのお話でございます。
夏候惇の子供で、曹操の娘を嫁に貰って、曹丕とは友人だったというプロフィールを持っているにも関わらず、隣国にまで轟くのは悪評ばかりという珍しい立ち位置の夏侯楙。それ故かどうかは分からないけれど、三国志演義では夏候惇の養子とされた彼、果たして彼はそこまでダメダメだったのか?
そんな風に夏侯楙の実態に迫る!というお話にお付き合い下さいませ。
この記事の目次
演義では夏侯淵の子になった夏侯楙
さて三国志演義では夏侯楙は夏侯淵の子ですが、前述したように実際には夏候惇の実子です。余談ですが夏侯淵の長男、夏侯衝は字が判明していませんが、次男の夏侯覇が仲権、三男の夏侯称が叔権、四男が季権という字になっており、通例から行くと伯権ではないか?と予想されます。
夏侯覇は蜀に亡命したことで有名ですが、兄弟たちは魏に残り、後々には東晋の皇帝の生母となるなど曹魏の縁者であっても能力を評価され、高い地位についた者たちもいます。
関連記事:夏侯覇は何故、魏から蜀に亡命した?魏に残り続けた夏侯家の違和感と姜維の策略
記述が少ない夏侯楙
いきなり夏侯淵の息子たちに話がそれたぞ!と思われますが、ここで正史を見てみましょう。夏侯淵の息子たちは夏侯淵伝に付属する形で、多くは魏略から引用され、載せられています。そして夏侯楙もまた、その記録の殆どは魏略から抽出されているのですが……何というか、そう、驚くほど少ないのです。これはちょっと疑問点ではないでしょうか?
関連記事:スキャンダルにまみれた夏侯惇の息子・夏侯楙の嘘と真実
関連記事:天下分け目の「赤壁の戦い」で「夏侯惇」は活躍したのか?
曹操の娘を娶ったエリート夏侯楙
前述したように、夏侯楙は魏の忠臣であり、功臣でもある夏候惇の次男です。しかも曹丕と友人関係を築き、曹操の娘(つまりお姫様)をお嫁さんにしました。もちろんそれにそった役職にも付き、立場的には記録が残されてもおかしくない立場に夏侯楙はいるのです。
しかし蓋を開けば「軍略が分かってない」「ケチ」「女好き」「弟から告発される(助かった)」と、残された記録があんまりにもひどい。これでカッコ良くてクレバーな夏侯楙の人物像を描けという方が無理な話でしょう。
関連記事:もしも、曹丕が禅譲を要求せず後漢王朝が存続したら?
会った事もない魏延にさえ臆病者認定される夏侯楙
さて、夏侯楙が散々な評価をされる一因として、魏延による証言があります。魏延は北伐において諸葛亮に取り入れられることはなかった策がありますが、これは奇襲作戦なんですね。この策を提案した時に魏延は「夏侯楙は軍略の才能もなくて臆病者だから自分が奇襲をかけたら怯えて逃げ出しますよ!」と言いました。
これはとんでもないことです。夏侯楙は敵地である蜀からでも臆病者と評判が立っているということなんですよ!特に戦ったこともないし従軍記録もないに等しいのに魏延はどこでこんな情報を知ったのでしょうか?
関連記事:「裏切り者」のイメージがある魏延は劉備に深い忠誠心があった?
関連記事:一騎打ちで楽しむ三国志!実は魏延は司馬懿と一騎討ちをしていた?
魏略でも臆病者扱いだった夏侯楙
とは言いましたが、これは実は魏略の記録。つまりこの魏延は夏侯楙が臆病者である、と言ったのは魏の歴史書作成者が記録として残したものです。
こんな記録を残しているのですから、少なくとも母国では夏侯楙は臆病者、という風潮はあったのかもしれません。……それを「他国の魏延までこういっていた」という記録にされてしまうと、何だか必要以上のネガティブキャンペーンな気もしますが……。
関連記事:魏延の北伐について史実と三国志演義両方から考察してみる
関連記事:またまた発見!劉備の黒歴史、なんと劉禅には生き別れの兄がいた?
【次のページに続きます】