佞臣とはとても簡単にいうと悪い家臣で、特に自分の立場を利用して政治の場を都合よく動かしてしまう人を言います。こちらについて詳しい解説は別の項でやっていますので、今回はふんわりとご理解下さい。
今回のテーマはこの佞臣の陰には「皇帝」の存在が欠かせない、ということ。佞臣の陰には皇帝在り、これについてお話をさせて頂こうと思います。
この記事の目次
後漢を滅ぼした十常侍
さて十常侍で大切そうであんまりそうでもないのが人数、実は正史では12人いることはほんの少しだけ覚えておくとミニマム豆知識になります(ならないかもしれません)。
そんな彼らが後漢末期、佞臣と呼ばれるまでに専横を行った背景には、時の皇帝・霊帝による官位売買がありました。この叩き売りされた官位を購入して皇帝の傍に常に侍った宦官たち、彼らが十常侍です。
彼らは帝の権力を操って権力を欲しいままにし、国土は疲弊、群雄割拠の時代が来てしまうことになります。
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十常侍に権力を与え私利私欲にふける霊帝
そんな官位売買をやってしまった霊帝ですが、良く三国志演義をベースにした読み物などでは「十常侍(とてもわるいやつら)に好き勝手される人」「お飾りの皇帝とされている可哀想な人」のように描かれることが多くあります。
しかし霊帝自身も全くの被害者という訳ではなく、前述したように十常侍冗長の原因を作った存在であり、霊帝も宮中で酒色に溺れるなど、決してただ被害を受けただけの人物ではありません。
官位売買には国庫の回復という目的もあったとも言われますが、結果としてそれは民衆への搾取、疲弊からの黄巾の乱を招いたことに繋がってしまい、霊帝の行動が中国全土の混乱を招いた要因となっているのは忘れてはならないでしょう。
出師の表で孔明に非難された霊帝
因みに霊帝の行動についても当時から一応色々と思われていたのか、諸葛亮の有名な出師の表では
「つまらない人間を用いて、有能な人間を遠ざけた、これこそが後漢が衰退した原因です。先帝はこれを良く話していて、後漢を衰退させた霊帝のことを嘆いていました(意訳)」という風に書かれている所を見ると、当時としても霊帝は完全な被害者ではなく、衰退の一要因の一つと考えられていたのでしょう。
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精忠岳飛と佞臣秦檜
ここらでちょっと北南栄の話に移りましょう。この時代の英雄岳飛と、それを冤罪で死に追いやった秦檜です。
岳飛は農民出身でありながら武勇に優れ、私兵を率いて異民族である金と戦い、何度も勝利を重ねます。当時、栄は金に敗れ、皇族たちは金に連行され、唯一残った高宗が南栄を立てました。岳飛は彼の下で金と戦い、勝利を続けますが、ここで金から逃げかえってきて宰相になったのが秦檜です。
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岳飛を無実の罪で殺す秦檜
秦檜、そして高宗は金との講和を望み、このために岳飛ら軍閥を解体処分してしまいます。岳飛はこれに反対して軍を解体しないでいましたが、高宗からの再三の要求に膝を折りました。
後に岳飛は秦檜から「謀反を企んでいた」として捕縛、家族と共に捕まり、拷問によって自白を強要されるもこれを受けず、絞殺されます。
後にこの岳飛の謀反を企んでいた証拠を、と言われた秦檜は「あったかもしれない」と答えるのみで、彼の死後に岳飛の冤罪は晴らされることになります。一方で講和を結んだと言えどかなり金よりの内容で結び、反対する者を尽く罰した秦檜は佞臣の代表格とされてしまいました。
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