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諸葛亮は分かる
で、諸葛亮は分かります。というのもそもそも三国志をまとめた陳寿先生が、元々蜀の人物。
であったために、蜀に対して多大なる貢献をした諸葛亮に対して経緯を称して伝を単独で立てた……しかし、晋書によると「陳寿は父親が諸葛亮に処罰された恨みから「諸葛亮って臨機応変の才に欠けてることあるよねー」とか書いたんだよ!」とも言われており……
まあ、何だかんだ私情もちょっと入ってしまった部分もあったのでしょう。
では、陸遜はどうして単独で?
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劉備すごい(結論)
さて陸遜が有名になったのは、色々とありますが、夷陵の戦いが大きいでしょう。そして夷陵の戦いで陸遜が大勝した相手は、誰でしょうか?
そう、蜀の皇帝である劉備です。つまり陸遜というのは劉備に勝った人物です。これは三国志演義で顕著ですが、賛美したい人物に勝った人物、それは強大で優秀な人物でなければなりません。
なので陸遜の伝を特別に立てたのはあくまで「劉備に勝ったから」という見方ができるのではないでしょうか。
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孫権すごい(結論?)
その陸遜伝、陸遜に関わらず、陳寿先生は三国志の伝のまとめにその人物の評価をしています。そこで陳寿先生は「陸遜の知謀は見事である!」と書いています。何だやっぱり陸遜のファンだったのか……?と思ってしまいますが、更に続きが。
「でもその才能を知って使いこなせた孫権はすごい!(意訳)」とまとめられています。
個人的にここに「陸遜は凄いかもしれないけど劉備に勝った陸遜を手放しで褒めたくない……」という、陳寿先生の感情がにじみ出ているのでは……と思いましたが、皆さんはどう思いますか?
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三国志ライター センのひとりごと
陳寿の陸遜の評価に「ほぼ社稷の臣」というものがあります。社稷の臣とは、国の守りたる臣下、重要な臣下であるということなので、称賛なのですが……何となくこの「ほぼ」に引っかかりを覚えてしまいます。
もしかしたら陸遜が晩年の孫権から疎まれて憤死したことを暗喩しているのかもしれませんが、ちょっとだけにじみ出た陳寿先生の私情、というのを考えてみました。こういう三国志の見方も、たまにはいいよねということで。
どぼーん。
参考文献:「三国志」
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