呉の丞相となった陸遜。夷陵の戦い、石亭の戦いと大きな戦で戦果を挙げ、諸将にも評価されるようになった陸遜。
孫権もここで陸遜を抜擢し、更にその任に応えた陸遜をより重用するようになるのですが……ご存知、二宮の変が両者の間に亀裂を入れます。
告発されて哀れ陸遜は憤死、後にその疑惑は子が晴らすことになるのですが、何とも苦々しい最期です。今回はこの陸遜と孫権の確執に付いて、色々と考えてみたいと思います。
呉滅亡の全ての始まり?
二宮の変、これこそ晩年の呉の、そして孫権の生涯に陰を落としてしまう事件です。そもそもの始まりは孫権の長子、孫登が早逝してしまったことが発端でした。
孫登は孫権に王夫人の子である孫和を次の太子にするように遺言し、亡くなります。孫権はこの意に沿い、孫和を太子に立てるのですが……。
同年に孫和の異母弟、孫覇を魯王に立て始めた頃から段々と軋轢が起こり始めます。
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二宮の変
孫権は孫和と孫覇を同様に遇し、皇太子である孫和と孫覇は同じ宮殿で生活していたと言います。皇太子とその異母弟を同様に扱う、という孫権の行為は臣下から批判を受け、それなら……と孫権は新しく宮を立て、二人を別々に住まわせました。
ですがこれが返って孫覇に不満を抱かせ、兄との関係は悪化、両者の軋轢を深くしてしまったのです。そして重臣たちを巻き込んだ呉最大の後継者問題へと変化していきます。
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陸遜憤死
当時、丞相となっていた陸遜はこの一件に付いて何度も孫権に上奏を行いました。しかし陸遜の言葉は届かず、逆に孫覇派によって孫和派だった陸遜は讒言を受け、孫権から厳しい詰問を受ける事態に陥ります。
当時、この孫覇派による讒言で孫和派の人物が処刑、左遷された中には陸遜の甥にあたる人物もいました。これらの事件により陸遜は憤り、病死……つまり憤死した、と言われているのです。
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二宮の変と陸遜の憤死を振り返る
ざっくりと振り返りましたが、陸遜の二宮の変と憤死についてはこれくらいでしょうか。基本的に、孫権が陸遜を信頼せず、追い込んだ挙句に憤死させる、という事態です。
そもそも後継者問題について孫権がはっきりとしない態度を取っているからこのような事態が起こり、陸遜は巻き込まれた結果になった訳ですね。
……ですが、陸遜の側には何ら落ち度はなかったのか?
という部分を今回はちょっと考えてみました。
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