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派閥の垣根を壊した孔明
劉禅が即位してからの蜀漢政権は、大別すると益州土着の人士と荊州出身の人士で派閥が形成されていました。劉備の時代は益州土着の人士が要職についたケースは稀です。基本的には旗揚げ当初から付き従っていた古株や荊州時代から加わった人たちが中心となっていました。
諸葛亮は北伐に際して、人材不足解消のためにそれまでの流れを断ち切り、益州土着の人士を重役につけています。
ただ、政治の中枢を担う尚書台には、益州人が少ないので完全に改善できたわけではありません。とはいえ、費禕の時代には尚書台にも多くの益州人が進出するようになっているので、諸葛亮の功績は大きいと言えます。
残念な点としては、益州人は既得権益を守ることが優先となっていたために、蜀漢滅亡の危機に際して降伏派に傾いてしまい、朝廷内での内部分裂を招いてしまいました。
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法による国家運営を築いた諸葛孔明
劉備が成都を攻略した後、諸葛亮は法による統治を主張し、法正や伊籍、李厳、劉巴らとともに蜀科という法律を作りました。諸葛亮はこれに従って厳格に処罰を行ったため、国は安定して統治することができました。
もともとはただの軍事勢力に過ぎなかった劉備軍が、百万を超える民を従える立場になったこと、そして上述したような様々な派閥の垣根を超えて、国家として一つにまとめる上で法治は不可欠だったと言えます。
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呉との国交回復に努めた諸葛亮
夷陵の敗戦後に孫権は国交の回復を願い出ており、劉備もこれを承諾しています。ただ、これだけでは呉はまた裏切るかもしれません。
そこから再び同盟を結ぶところまで関係を修復し、それを維持し続けたのは諸葛亮の功績と言えるでしょう。結果的に同盟は蜀漢が滅亡するまで続いているので、弱体化を始めていた蜀漢政権の寿命を延ばしたとも考えられます。
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三国志ライターTKのひとりごと
筆者的に諸葛亮の一番の功績は劉備に隆中対を説いたことだと考えます。それが全ての始まりであり、後の建国や長期に渡る国家存続へと続いていくからです。
むしろこれがなく、諸葛亮が晴耕雨読の生活を続けていれば、劉備勢力は荊州で滅ぼされていたでしょうし、これだけ後世に残る功績が生まれることもなかったように思います。
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