「邪馬台国」は中国の正史「三国志」に名前が見られる、現在の日本にあった、とされる国です。
「卑弥呼」と呼ばれた女王が治めていたと言われていますが、彼女は魏に使者を送り、返礼に「銅鏡100枚」をもらったと言います。
この「銅鏡」とは何なのでしょうか?
また、発掘されているのでしょうか?
今回の記事では「卑弥呼の銅鏡」について調べてみましょう。
この記事の目次
邪馬台国の名前と場所
「邪馬台国」とは中国の歴史書「三国志」に登場する現在の日本にあった、とされる国です。「邪馬台国」の名前が見られるのは「三国志」の「魏書東夷伝倭人条」と言われる場所です。
これは魏に使者を送った異民族の風俗などが書かれていて、通称「魏志倭人伝」と呼ばれます。「邪馬台国」は「やまたいこく」と読むのか「やまとこく」と読むのか正確にはわかっていません。
また、その国の位置も「三国志」の記述があいまいで、「九州説(福岡など)」「畿内説(奈良など)」諸説あります。
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邪馬台国の歴史は?
古代の倭国(日本)は代々男の王が治めていましたが、戦乱が起き、「卑弥呼」と呼ばれる女王を即位させると国は安定したそうです。卑弥呼は何度も魏に使者を送っています。
そして西暦238年(239年説もあり)に魏の皇帝「曹叡」もしくは「曹芳」に謁見し、「親魏倭王」の称号と金印、そして「銅鏡100枚」が贈られたのです。
その後邪馬台国は南にあったという「狗奴国」戦争状態に入ります。女王はその戦いを魏に報告すると魏は役人を派遣するなどしています。
後に卑弥呼が亡くなると男王が即位しますが、国は乱れ、卑弥呼の親せきだという女性「台与」を即位させ、ようやく国は収まりました。台与は魏の後継の「晋」にも使者を送っています。
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そもそも「銅鏡」とは何か?
卑弥呼が貰った銅鏡について語る前に、そもそも「銅鏡」とはどんなものなのでしょうか?
銅鏡は青銅で作られた鏡で、古代の中国ではじめに作られ、朝鮮、日本など東アジア全体に広まりました。
主に祭祀で使われ、表面には文字や模様が刻まれていました。もちろん現在でいう所の鏡の機能もあり、西洋からガラスが渡来するまでは広く使われていました。現在博物館などで見られる銅鏡は緑色をしていますが、これは経年によるものであり、元々は白銀の光沢を放っていたといいます。
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発掘された「銅鏡」は卑弥呼の鏡なのか?
邪馬台国の位置を探る際、「魏志倭人伝」に記載されている「銅鏡100枚贈った」という記事が大きなポイントとなっています。もし魏が邪馬台国に贈った鏡が発掘されれば、その場所が邪馬台国の位置である可能性があるからです。
「三国志」の時代に作られた鏡は神仙界(理想郷)を描き、神や動物の像が彫られている「神獣鏡」と言われるものがメインです。特に鏡の縁が三角になっている「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものが各地の古墳から出土しています。この鏡が「卑弥呼の鏡」と言われることがあります。
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