こんにちは。古代史ライターのコーノヒロです。今回は、南インド出身の僧侶のボーディセーナが日本にやってきた理由を探っていきます。どうぞお付き合いください。
この記事の目次
ボーディセーナが日本に来た経緯
まず、ここでボーディセーナの日本までの道のりを振り返ります。8世紀初め、南インド周辺にて生を受けたと伝わっています。インドで仏教修行している内に、向学心や探究心とともに、仏道を広げることに意欲を持ち、中央アジアを通って、中国大陸へ向かいます。
「唐」の都の長安に到着し、そこに滞在していました。その長安での滞在時に、日本からの「遣唐使」の使節団との出会いがありました。
大使「丹治比真人広成」留学僧「理鏡」中でも、この2名が有名で知られているようです。彼らは、ボーディセーナの優れた名声を聴くと、日本へ是非に来てもらいたいと招請したというのです。
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当時の日本は武帝による治世
当時の日本は「聖武天皇(聖武帝)」の治世で、聖武帝により、唐から高僧を連れてくるようにと要請があったようなのです。ボーディセーナは、彼らの熱心な志に打たれて、その招請を断ることはなかったと伝わっています。
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なぜボーディセーナ(菩提僊那)は日本行きを決意したのか?
しかし、なぜなのでしょうか?
そもそも、ボーディセーナにとっては唐の長安にいた方が都合が良かったのではないでしょうか?
最高の学びの場であり、さらに、世界に仏道を広めるための格好の発信基地であったはずではないでしょうか?
当時(8世紀前半〜半ば)、唐帝国の勢力は、東アジア、東南アジア諸国から、中央アジアにまで及び、西アジア中心の「イスラム帝国(ウマイヤ朝)」と並び、世界最強クラスの勢力だったと言ってよいでしょう。
ただ、当時のウマイヤ朝のイスラム帝国は、ヨーロッパの「フランク王国」との戦闘【732年「トゥール・ポワティエ間の戦い」】に破れたり、「ビザンツ帝国(東ローマ帝国)」の首都である「コンスタンティノープル【現在はトルコの首都・イスタンブール】」への侵攻を度々試みるも、撃退されたり(674年〜678年と717年〜718年)など、衰退の兆しがありました。
つまり、(8世紀前半では)事実上の世界最強の勢力の国家は、中国大陸の「唐帝国(唐王朝)」だったと言って良いでしょう。すると、自然と、その首都の長安は、世界最高の学術研究都市の様相も持っていたとも考えられるのです。
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唐王朝は仏教国家の印象が強い
特に、唐王朝については、「玄奘三蔵」が天竺からの十数年にわたる旅から長安に戻ってきて、当時の皇帝「太宗・李世民」に歓待されて以来(645年)、仏教国家の印象が強いと思われる方も多いと思います。
なのに、なぜ、ボーディセーナはその長安から離れたのでしょう?
しかも、唐から見れば辺境と言える日本まで来たのか?と疑問が浮かびます。二度と故郷の地を踏めないかもしれないのですから。
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ボーディセーナが訪日した考えられる理由
まず2つの理由が浮かびます。
①日本の遣唐使からの熱烈アプローチがあって、断りきれなかった。
②すでに日本に対する情報を持っていて魅了されていた。
どちらもあり得る話です。
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玄宗は廃仏主義者だった?
ただ、より可能性の高い理由として、ボーディセーナは、当時の唐の皇帝「玄宗」に対する不信感があったのでは?と考えられるのです。詳しく見てみましょう。
玄宗は、所謂「道先仏後」の政策を取っていたということなのです。つまりは、道教を重んじ、仏教は二の次という政策だったのです。そもそも、中国史上の歴代王朝でも、唐王朝の歴代の政権でも、中国発祥の「道教」を重んじる傾向が強く、その「道先仏後」は当然の流れの国家政策でした。
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道教を国教待遇していた唐王朝
道教を国教待遇としていた訳です。特に、唐王朝では、その流れが強かったようです。それは、唐の皇帝の一族の苗字は「李氏」で、道教の始祖とされる「老子」の苗字も同じく、「李氏」だったと伝えられていたからのようです。
ですが、2代皇帝「太宗・李世民」や3代皇帝「高宗・李治」は、玄奘と対話したことが影響したのか、道教と同様に、仏教に対する尊敬の念を強めたと考えられます。
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