皆さんは「孟達」についてどのような印象がありますでしょうか。三国志演義を見たイメージだと「何やかや理由付けて関羽を見殺しにした人」でしょうか。
正史を追っていくと「あっちこっちで何か裏切る人」……かもしれません。もしかすると「何かそんなに印象が残ってない」という人もいるかもしれませんね。
さて今回はそんな孟達……よりも、実は面白いかも?
孟達とその孟達パパのお話をしてみようと思います。
この記事の目次
司隷の人だったが大飢饉で益州に流れる
孟達はそもそもお友達の法正とは違って、伝が立てられていません。このため三国志の各伝を追っていく必要があって、ちょっと面倒な人でもあります。なのでもしかすると三国志演義を読んでしまう方が分かりやすいかもしれませんね。
元々は劉璋に仕えていて、友人の法正と一緒に劉備に仕えることになります。この法正とは同郷でしたが、飢饉から逃れるために益州の劉璋に仕えることになったと言われています。
孟達と対照的な劉封
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劉璋から劉備、さらに曹丕と落ち着かない人生
しかし劉備に仕えるも、関羽の一件で劉備から離れることになりました。この時に古の楽毅の書を引用するなど、弁の立つ人物でもあったようです。
その後は魏に降伏して曹丕に寵愛されるも、曹丕の死後は再び蜀に寝返ろうとし、謀反計画がバレて誅殺されることになります。このため、あまり良い印象がない武将の一人でもありますね。
もうちょっと言うと、印象に残らないイメージもある人物でもあると思われます。
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父親の孟佗も曲者だった
さて、そんな孟達ですが、前述したように弁の立つ人物でもあったと評判でした。実際に劉備への手紙、そして劉封への手紙などでその弁才は窺い知れます。……とは言え、手紙の文面だけ見るとどうにも長々しく、ちょっとくどく感じる面もあるのは否めませんが。
そんな孟達の才能、実は父親譲りではないかと思われます。孟達の父親は孟佗と言い、宦官の「あの」張譲に賄賂を贈って涼州刺史を得た人物なのですが、その過程が中々に面白いのでご紹介しましょう。
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その頃、我が世の春だった宦官張譲
霊帝の時代に、宦官たちが宮廷で権威を誇っておりました。その内の一人こそ、中常侍・張讓です。
霊帝は張譲を「我が父」と呼ぶほどに寵愛しており、張譲もそれを良いことにやりたい放題しておりました。何せ皇帝にそれほどに信頼され……そして良いように政治を操れる人物でもあります。
張譲と何とか顔を繋げたいと思う人物は多く、多数の者たちが彼と会うことを望み、多くの賄賂を贈ったと言います。
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