学者肌で董卓に処刑されそうになったときには、人望の厚さから董卓の配下に助けられたほど。奸智・董卓からかばわれるほど価値のある人物・盧植先生には、どんな生徒がいたのでしょうか。
幽州の公孫瓚も盧植の門下生
”公孫”が苗字で”瓚”が名前、中国で二文字の苗字は珍しいですが、三国志では司馬や夏候など意外と多いのです。公孫瓚は地方の豪族の子でしたが、盧植先生に出会いは結婚が契機となりました。
遼西郡で公務員をしていた公孫瓚。説明がとても上手でアップル社のスティーブ・ジョブスさながらに巧みな話し方をしたそうです。それがトップの耳に入り、ぜひ彼を娘の結婚相手にしたいと言ったとのことです。
トップは候氏という人物で、現在の県知事のような存在。公孫瓚は知事の資金をバックボーンに遼西郡の西にある”涿郡”へと足を運びます。涿郡は現在の北京市の辺り、遼西郡は河北省と遼寧省の間ぐらいです。
そこで先生をしていたのが本も出版していた盧植でした。当時、公孫瓚が習ったのは”経書”や”兵学”です。経書とは四書五経の9つを指し、儒教のありがたい教えが刻まれています。中国では大事なものには「経典」や「経書」など「経」の字が使われました。
織物をするときに重要なのは縦糸です。”縦”と”経”は同じタテを意味します。つまり、経の字には”重要な”という意味が含まれているのです。
兵学はいわゆる大軍を率いての戦い方の教科書です。一対一の武術と違い、地形や天候を把握し、戦局を有利にすすめるコツが書かれています。平たく言えば、公孫サンは防衛大学校に入学したのです。
涿郡の劉備君
15歳になった劉備君は親戚の薦めで地元・涿郡の盧植先生の元を訪ねます。当時の劉備君は乗馬や音楽が好きなやんちゃな人物でした。無口でしたが、およそ学問とは程遠い性格です。
そこにちょうどやって来たのが公孫瓚兄貴です。すでに公孫瓚兄貴は結婚して働いていましたから、かなりの大人に見えたことでしょう。劉備君は彼を兄貴と慕います。ほかに劉備のいとこも一緒に通っていました。
劉備と同郷の高誘
盧植先生は涿郡では名が通っていましたから、高誘というクラスメイトもいました。西暦205年に高誘は「司空」という役職に就く人物です。戦乱によって書物が焼けたため詳しい資料が残っていませんが、彼も盧植先生の生徒の一人でした。
劉備君からは公孫瓚と同じく兄貴と慕われて、三人の中はとてもよかったそうです。
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袁紹討伐は赤壁の戦いと同じ図式
袁紹配下にはあの曹操も控えています。一方の袁術配下には、盧植先生のクラスメイトだった公孫瓚兄貴がいました。戦で負けてボロボロになった劉備君は公孫瓚兄貴のところに身を寄せます。
また、呉の孫堅も袁術側でした。つまり赤壁の戦いのような曹操対呉・蜀連合軍のような図式がすでに存在していたのです。
公孫瓚兄貴は袁紹を攻めます。きっかけは公孫越が戦死したことでした。あまりの勢いに恐れをなした袁紹は公孫瓚兄貴のいとこである公孫範を仲介役に任命します。しかし、和議を結ぶどころか、周辺の兵士を吸収して公孫瓚兄貴サイドについてしまいます。
4万の大軍で袁紹軍へと攻め込む公孫瓚兄貴ですが、袁紹軍の強弩隊と数万の歩兵隊にやられます。敗因は兄貴の騎馬隊の戦略を袁紹軍が熟知していたことでした。
やがて兄貴の城が包囲されます。しかし、これを堅守した兄貴、チャンスとばかりに袁紹軍を追撃します。戦いは長期戦となり、二年後に公孫瓚兄貴は敗走。高唐の地にクラスメイトの劉備君を派遣しますが、袁紹軍サイドの曹操にやられてしまいます。
そして、公孫瓚兄貴の推薦などもあり、「平原国の大臣」にまで地位を高めた劉備君。陶謙からの援軍にかけつけ、戦果をあげると彼にヘッドハンティングされるのです。こうして、劉備君は兄貴のグループを去りました。
三国志ライター上海くじらの独り言
盧植先生の下で学んだ儒教の精神や兵法が功を奏して戦果を挙げた生徒たち。
劉備君に至っては蜀漢の皇帝にまで上り詰めます。
これも少年時代の盧植先生の教えが染み付いていたからかもしれません。
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