文欽は強きを助け仲間を挫く世渡り大魔王だったのでは?

2023年4月29日


 

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文欽

 

魏将……まあ後で()から()に落ち延びるから呉将でもある文欽。

 

文鴦(ぶんごう)

 

どっちかというと息子である文鴦(ぶんおう)の父親、であることの方が有名かもしれない文欽(ぶんきん)。魏でも呉でも「周囲にめちゃくちゃ嫌われていました」とか言われてしまう文欽。でも実は文欽はカリスマ的なパワーに満ち溢れていた……かもしれない?

 

今回は文欽の、不思議な魅力(?)について、お話したいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹叡には不問にされた文欽の所業

毌丘倹と共に反乱を起こす文欽

 

さて文欽の性格は「気性が荒い」「礼節を弁えない」「どんな役職についても上司を馬鹿にする」「法に(したが)わない」と、書かれている記録からもちょっとよろしくないですね。これによって文欽は周囲から嫌われ、いつも弾劾の上奏がなされていたようです。

 

曹叡

 

さてこの当時の魏のトップは曹叡(そうえい)でしたが、なんと不思議なことに曹叡はこの上奏を抑えてやっていたと言います。

 

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同郷人の曹爽にも庇われ増々調子に乗る

曹爽

 

時代は移り変わって曹叡も崩御。次に魏の実権を握ったのは曹爽(そうそう)でした。この当時、文欽はその性格の残忍さから王淩(おうりょう)に弾劾され、一時中央に召還されました。

 

司馬懿と曹爽

 

しかし魏の実権を握っていたのは曹爽でした。重要なことなので二回以上言わせて頂きますが、曹爽だったのです。曹爽は文欽と同郷で仲が良かったためか、事件を大して取り調べずに解放、更には昇進させました。これで文欽は増々偉ぶるようになっていったと言います。

 

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戦果の水増し要求を司馬師に蹴られて蜂起

晋の司馬師は玉座に座る

 

そして曹爽失脚。これにより文欽もちょっと立場が危うくなります。後に実権を握ったのは司馬懿(しばい)の息子、司馬師(しばし)。文欽は司馬師に怨みを抱いていました。何故なら功績の水増し報告をしたら、却下されたからです!

 

高句麗まで攻めるカン丘倹(毌丘倹)

 

割と自業自得な気がしますが、司馬師の専横を危うく思う毌丘倹
(かんきゅうけん)
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八王の乱

 

 

 

呉の嫌われ者、孫峻とはマブダチに

孫峻

 

こうして呉に落ち延びた文欽。その理由は良くは分かりませんが、呉の諸将にも嫌われておりました。嫌悪されていた所か、憎悪されていたとか言われるほどです。そしてこの当時の呉を掌握していたのはご存知、孫峻(そんしゅん)。そして不思議なことに孫峻は文欽を信任しました。

 

孫峻の専横

 

この後、文欽が北伐を進言した時にそれが用いられるほどには信頼されていたようです。まあ周囲からはまた嫌われているのですが……。

 

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二宮の変

 

 

相性最悪の諸葛誕の援軍に来て殺害される

諸葛誕

 

そして後、魏で諸葛誕(しょかつたん)が反乱を起こします。この時に文欽は呉の他の諸将と共に救援に駆けつけ、寿春に入ります。

 

諸葛誕と仲違いを起こし殺害される文欽

 

しかし兼ねてより諸葛誕とは仲が悪く、籠城戦で食料も付き、意見の対立から諸葛誕から切り殺されることになりました。ここで文欽という武将の生涯は、幕を閉じることとなります。さて、文欽。ご覧になって、いかがでしょうか。

 

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権力者に取り入るのがうまかった文欽

文欽

 

先に述べましたように、文欽という武将、人物。不思議なことに、時の権力者に好かれる傾向にあります。そしてそれと反比例するかのように、周囲からは嫌悪されます。

 

良くあることですが、権力者に好まれる人間というのは、得てして孤独なものです。どのように優秀な、そして清廉潔白な人間であっても、媚びを売っただの、調子に乗っているだの言われるものです。そう、文欽という武将は悲劇の武将だったのです……。

 

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文欽が権力者取り入りマニュアルを残さず全ては謎に

正史三国志_書類

 

ということは、正直な話、あまり可能性はないのでは?とも思います。まぁ文欽という武将の記録が、驚くほど良いことが書いていないためにふと思ったのですが……ぶっちゃけてしまうと、曹爽や孫峻に好かれていたと言われても良いイメージは抱けませんし、曹叡に好かれていた?のも、何となく諸葛誕と仲が悪かったからじゃないか……?とも考えられます。

 

ただ面白いほどに良いことが書かれていない。周りからとても嫌われている。だけど一部の人物、それもトップから好かれる。そんな文欽という人物、どんな魅力があったのか。皆さんは、どう思いますか?

 

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三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

今回は個人的に何とも結論が出ませんでした。文欽は記録からろくでもない人物像しか想像できないから、というのもあります。しかし逆に言うと、ここまで褒められた(一応、武勇には優れていましたとあります)所のない武将と言うのも中々いないな……と思った次第です。

 

三国志を楽しく語るライターセン様

 

文欽にどんな魅力があったのか……これについては、今後、少~しずつ。たまに想像していけたら良いな、などと思いをはせる筆者でした。

 

センさんが三国志沼にドボン b

 

どぼん。

 

参考文献:魏書毌丘倹伝 諸葛誕伝

 

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三国志ライフ

 

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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