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[三国志]荊州の価値、関羽の死と蜀の崩壊の因果関係

2023年5月29日


 

魏の旗をバックに戦争をする郭淮は魏の将軍

 

三国志は三国の熾烈な争いの歴史を書き記したものですが、三国は決して実力伯仲ではありません。どんどん力を増していく強大な魏と、蜀と呉、というのが筆者の見解です。

 

蜀の姜維

 

そしてこの三国の内、ある意味真っ先に崩壊していくのが蜀です。

 

敗れる関羽雲長

 

その崩壊が始まったのは勇将関羽の死からですが、その関羽(かんう)が守っていた荊州(けいしゅう)の土地の重要性を語っていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荊州という立地

三国志の地図

 

まずは荊州という土地の立地から見ていきましょう。荊州は長江の中流付近に広がっていた土地でした。この土地は蜀だけでなく、呉、共に重要な土地と認識されていたのか、三国でバラバラに所有地にされていました。

 

赤壁の戦い

 

荊州は赤壁の戦い以降、北部を曹操(そうそう)が、中南部は劉備(りゅうび)孫権(そんけん)が所有していたのです。

 

馬車

 

この荊州は平地が多く、それぞれの国の交通の要となる重要な土地だったのです。このため、蜀はもちろん魏も呉もこぞって狙っている土地でした。

 

 

 

諸葛亮が説いた荊州の重要さ

孔明

 

荊州の重要さを表すポイントとして、諸葛亮(しょかつりょう)の口添えもあります。荊州がまだ劉表のものであった頃に、劉備は劉表(りゅうひょう)の元に身を寄せていました。この時に諸葛亮は隆中策(りゅうちゅうさく)という戦略を劉備に進言します。

 

天下三分の計

 

この隆中策というのは、日本で馴染み深い言い方に変えれば天下三分の計(てんかさんぶんのけい)ですね。

 

劉表に反旗を翻する張羨

 

荊州は軍事的に極めて重要な要地なので、劉表から奪ってしまうように、というものです。これを劉備は拒否、とは言え最終的にどさくさ紛れに呉から奪い取ってしまうのですが……ともあれ荊州が戦略の要地と諸葛亮が言うほど、重要な土地であったことは推測できます。

 

 

蜀の立地的に、荊州は必要不可欠

祁山、街亭

 

ここで蜀の立地を考えて見ます。蜀というのは山岳地帯です。周囲をぐるりと囲むように山々が連なっており、天然の要塞になっています。つまり防衛をしやすい土地なのです。

 

祁山、街亭

 

しかしその一方で、蜀自身が攻める時も攻めにくいのです。大軍を狭い山岳地帯を抜けて移動させ、しかもその道中に補給路もしかなければいけません。

 

兵糧を運ぶ兵士

 

同じ長距離を移動するにしても、山々を越えて歩いていくのと、平地を移動するのでは訳が違います。なので開けた位置にある荊州を駐屯地にすることは、戦略的に見てとても重要でした。同時に山岳地帯では人々が住むのも大変でしょう。そういった人口面、居住区にも荊州は相応しい、蜀にとって必要不可欠な土地であったと言えます。

 

五虎大将軍の関羽

 

これだけ大切な土地だからこそ、関羽という武将に任せました。また関羽が討ち取られてしまってからは、坂を転げるように転落していったのもこの荊州を失ったことが大きな原因の一つになっていると思います。

 

 

関羽は実は荊州担当が不満だった?

顔良と関羽

 

さてここで最後に触れておきたいのが関羽と荊州について。

 

関羽 3つの条件

 

荊州の土地の重要性に関しては既に説明した通りです。そしてそんな大事な荊州だからこそ、相応の人物に任せなければいけません。そこで蜀は関羽に任せたのですが……実は関羽の方ではこのことを不満に思っていたと考えられます。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

と言うのは劉備が漢中(かんちゅうおう)になった年のことです。劉備はこの時に関羽を前将軍、黄忠(こうちゅう)を後将軍に任命しようとしました。

 

関羽は神様

 

しかし諸葛亮はこの件について「張飛殿、馬超殿らは黄忠殿の活躍を見ているので文句は言わないでしょう。しかし荊州に残っていた関羽殿はそのことを知らないので納得しないと思います」と、進言しています。この推察はぴたりと当たり、関羽は黄忠という老将軍と同じ扱いを嫌って怒ってしまいます。

 

関羽

 

関羽はこれまで、荊州でずっと留守番のような位置にいました。皆が戦線で手柄を立てる中、ただ荊州を守るだけ……もちろんそれもまた重要な役割です。しかし事ここに至って黄忠と同じ扱いは嫌だ!とへそを曲げたような態度を見せる、これは関羽は自分が戦っていたらもっと手柄を立てた!とでも言いたかったのではないでしょうか?

 

激怒する関羽

 

どうもこの関羽の振る舞いは何だかいじけているような、へそを曲げた態度にしか見えないと筆者は感じるのです。そう思うと後の樊城の戦い、ここからの関羽の快進撃は今までの鬱憤が溜まっていたから。

 

関羽

 

やけに急いで攻め上がったのは自分も戦働きで功を上げたかったから……とも、考えられないでしょうか?

荊州を守っていたから関羽の死期を早めた、なんて考えると、少々皮肉ですけれどもね。

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

いかがでしたでしょうか。荊州という土地が蜀のみならず、三国それぞれにとっても重要な土地であったこと。

 

降伏する劉禅

 

そしてそんな荊州を失ったからこそ蜀の崩壊は始まってしまったこと。歴史的が「動いた」瞬間は、荊州にあったのかもしれません。三国志というとどうしても武将に目が行ってしまいますが、たまには三国志に出てくる土地にも注目してみて下さいね。

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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