諸葛亮は蜀(221年~263年)の丞相です。蜀の初代皇帝の劉備・第2代皇帝の劉禅に仕えました。
魏(220年~265年)と死ぬまで戦ったことから、忠義の臣として有名です。今回はそんな諸葛亮の人物像を正史『三国志』から解説します。
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諸葛亮は若い時に自分を管仲や楽毅と比較していたことが、正史『三国志』に記されています。管仲は春秋時代の斉の宰相であり、楽毅は戦国時代の燕の将軍です。
諸葛亮がやっていることは現代で例えるのなら、「俺、ウルトラマン!」「じゃあ、俺は仮面ライダー!」という風に、「〇〇ごっこ」のような感じでしょうか。
友人に対して上から目線な諸葛亮
しかしながら、諸葛亮を認めていたのが徐庶や孟建、石韜でした。徐庶は諸葛亮以前の軍師として有名です。
これは諸葛亮が劉備に仕える前の話です。ある日、諸葛亮と3人が酒を飲んでいた時に自分たちがどれくらい出世できるか語り合った。すると、諸葛亮は「君たちなら、州刺史や郡太守になれるかもね」と言いました。
州刺史は監察官であり、郡太守は現在の知事のようなものです。
「それじゃあ、君はどうなんだ?」と諸葛亮は、みんなに尋ねられましたが、何も答えなかったそうです。
これは関して諸葛亮は、真の主を待っているため答えなかったという解釈もありますが筆者は違うと考えています。
実は家系図上では遠いですが、諸葛亮は劉表や蔡瑁・張允などの荊州の名士と親戚に該当するのです。
待っていても、出世の道はあったのです。つまり、この時の諸葛亮は「君たちと私は違うのですよ」と心中で笑っていたのかもしれません。
除外される李厳
諸葛亮が書いたものに、『出師の表』というものがあります。諸葛亮の忠義心を表現した文章であり、これを読んで泣かない人は不忠の輩と戦前の日本では言われていました。
ちなみに、筆者は泣かないので不忠者です。
この『出師の表』には蜀の家臣の名前が、ズラリと大勢出てくるのですが、除外されている名前があるのです。それは李厳です。
彼は劉備が死ぬ前に軍事に関して、後を託されていました。ところがその後、軍事面で関わるどころか、ずっと兵糧補給の後方支援ばかりやっています。最後は兵糧に関する虚偽報告をしたので、罷免されています。
確たる説ではありませんが、諸葛亮と孟獲との戦いは李厳から軍事権を奪うためと言われています。
ワンマン上司 諸葛亮
蜀の建興12年(234年)に諸葛亮は五丈原で魏と対峙しました。
相手は司馬懿です。
この時に諸葛亮は司馬懿を挑発しますが、司馬懿は落ち着いており挑発には乗りませんでした。
諸葛亮は司馬懿の陣に使者を派遣しました。
その時に司馬懿は、使者にこんな質問をしました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「諸葛亮はどんな生活をしているのですか?」
「朝早く起きて、夜遅くまで仕事をしています。仕事は軽いものから重い刑罰まで決裁します」
使者が帰った後に司馬懿は、「諸葛亮はもう長く生きないな」と人に語りました。
それからしばらくして、諸葛亮は本当に亡くなりました。これが諸葛亮の最大の欠点です。仕事を他人に任せない・・・・・・というよりも任せたくないのです。おそらく、他人が信じられない性格だったのでしょう。よく会社にいるワンマン上司の性格です。
司馬懿は、この諸葛亮の欠点を見抜いたので一戦も交えずに五丈原の戦いを終えました。
三国志ライター 晃の独り言
以上が、正史『三国志』の諸葛亮の人物像でした。諸葛亮は小説『三国志演義』の影響により、聖人君子として描かれますが、実際はそうでもありません。全ては歴史が物語っています。
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